シモーヌ・ド・ボーヴォワール著『老い』の第二部を読みながら、筆者が今、<老い>について持つイメージは、<老い>とは、いつか脱線することがきまっているレールの上を走る機関車のよう・・・。
人生は、はじめとおわりがあります。おぎゃと生まれてから死ぬまで、そのひとに与えられた人生の時間を生きていきますが、人生には、始発駅と終着駅があります。始発駅と終着駅をつなぐ線路の上を<人生>という機関車が走っていくのですが、ひとそれぞれ、始発駅と線路、終着駅は異なります。共通しているのは、人生という鉄路の旅は、終着駅にたどりつく前に、脱線があるということです。人の一生は、脱線をさけられない線路の上を走っている機関車のよう・・・。その機関車の名前はタレント・・・。1タレントの機関車もあれば、10タラント、100タラントの機関車もあります。100タラントの釜と石炭を積んでいる機関車は、高速で大きな荷物を満載して走ることができるでしょうが、1タラントの釜と石炭をつんでいる機関車は、少ない荷物を積んで低速で走ることになります。どのような人生の機関車であっても、その線路は、いつか脱線することになります。いつ、どこで、どのようなときに脱線するのは、誰にとってもそれは謎です。走っている線路がいつか脱線することになるということを肯定しても、否定しても、無視しても、やがて脱線は現実のものとなり、終着駅に着く前に、人生という鉄路の旅は終わりを迎えることになります。いつか脱線することになるレールの上を走っている機関車のような人生を、わたしたちはどのように生きていくことになるのか・・・?
どのように生きても、人生の、ほんとうの終着駅は、脱線とともに巻き込まれたその人の死、からだとこころの死のあと、わたしたちのたましいは、地の深いところにある奈落に落ちていくことになるのか、それとも、わたしたちの人生の主である、主なる神さまの御手によって上に引き上げられることになるのか・・・? わたしたちの人生における<彼岸>は、人生という鉄路の旅の延長線上にありません。延長線上にあるのは、人生の脱線・転覆のみです。<彼岸>は、人がたどり着くことができるところのことではなく、主なる神さまによって引き上げられる<上>にあります。<彼岸>は水平方向ではなく垂直方向にあります。人はその<彼岸>に自分でたどりつくことができず、ただ。主なる神さまによって、その恵みによって、招かれ、ひきあげられる以外には、たどりつこことができない<彼岸>なのです。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール著『老い』の第二部の出てきた、『老人と海』の著者、ヘミングウエーの老後の生き方を読みながら、筆者、上のような<瞑想>をすることになりました。筆者は、ヘミングウエイのような生き方をすることはできません。なにしろ、筆者は、<無学歴・無資格>(Academic Outsider)でしかありませんから・・・。
2022/12/28
人生は、いつか脱線することになるレールの上を走っている機関車のよう・・・
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