今、夜、『観聖寺文書』の「配下入峯扣帳」を、PaintShop X16ですべてのページを表示、判読するページを必要に応じて拡大・縮小して、古文書判読辞典を使いながら、目を通しただけでは判読できないくずし字も判読して、Word2019 を使って、縦書きで入力していきました。 1時間ほどでやめるつもりが、観聖寺ではない他の触頭が、触頭他4ケ院の当山派役所に出した冥加金納付延納願いの内容に考えさせられるところがあって、読みすすめました。
『観聖寺文書』の「配下入峯扣帳」には、触頭観聖寺配下の当山派寺院の動向だけでなく、信濃の国の他の、たとえば松代の触頭に関する記事も掲載されていますので、『観聖寺文書』を読むことは、観聖寺のみならず、同じ当山派修験に属する他の寺院に関する記録も目にすることになります。
中世の山岳信仰に関する修験の記録はほとんどなく、<里修験>といわれた近世の修験の記録が大半です。 筆者の先祖の触頭・観聖寺の住職・修験僧は、キリスト教の布教が禁止された江戸時代の、キリスト教の<教会>の牧師に代わる、民間宗教者であったようです。 真言宗当山派観聖寺は、日本基督教団議長、教区議長、分区長という役職で言えば、分区長にあたる存在・・・。 『観聖寺文書』は、明治政府の、事実上のキリスト教解禁のため、<邪教>として廃教に追い込まれた<里修験>の数少ない記録のひとつであるようです。
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