朝熱中症の症状が出て一時よくなったのですが、その後再び熱中症の症状が出て居間で安静にしていたのですが、なにもしないでじっと座っているのも落ち着かず、玄関の書庫の整理をしようと思ったのですが、すぐ断念・・・。
児玉幸多著『近世宿駅制の研究』を取り出してページをめくっていました。 副題に<中山道追分宿を中心として>が掲げられていますが、追分は小諸城下まで1日の旅路・・・。 この街道は、私の高祖父がよく通った道で、追分の東にある高崎の寺で尺八の修行をしてその免状をとったことがある街道です。 『観聖寺文書』の中に出てきます。
児玉幸多は、長野県更級郡出身・・・。 なぜ『近世宿駅制の研究』を書くことになったのか、その序文で、<なお私事にわたることではあるが、私の母は、信州の脇街道の一つである北国西街道の一宿駅の稲荷山宿の問屋本陣の家に生まれたもので、母から聞いていた伝え語りが、私をこの研究に数年間没頭させるのに何らかの影響があったように思い、また宿場のことを理解するのに役立ったと思う。 >と綴っていました。
先祖の歴史と伝承は、なんらかのかたちで子孫に受け継がれ、その人生をどう生きるかについて大きく影響しているものと思われます。
私の祖父・吉田向學は修験僧を隠退したときの通称ですが、明治最初の戸籍には修験僧の名前が記載されています。 長野市や長野県の史資料の中に関連資料が含まれています。 先祖の生き方が子孫の私にも大きく影響しているようです。
修験者は、街道の宿にとまることはできませんでした。 しかし、法令上禁止されて困るのは、偽修験者だけです。 ほんとうの修験者は、彼らが属する宗派の寺院を宿として使用していたからです。 観聖寺の住職の場合、真言宗当山派の寺院によって江戸の総触頭・鳳閣寺に所用で出向く場合、各地の真言宗当山派の寺院に寝泊まりしていました。 ある本に、番所で一泊した修験者の話が出ていましたが、その修験者はほんものの修験者ではなく修験者に扮した密偵の<穢多>・・・。
児玉幸多著『近世宿駅制の研究』には、街道を警備していた<穢多> (長吏) に関するまとまった記述はありません。 この児玉幸多著『近世宿駅制の研究』は、インターネットの日本の古本屋経由で入手した国立金沢大学付属図書館の廃棄本です。
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