妻が、会津坂下と磐梯の道の駅へ視察に行くといいますので、私も同行しました。
妻は、野菜直売所・湖南四季の里での売り上げを伸ばすために、会津坂下と磐梯の道の駅で販売されている野菜の種類と価格を調べて、妻の野菜つくりの参考にするそうです。
この前、妻は、これまで使ってきたベア・ベル2個1組をなくしたとか・・・。 妻の実家の段々畑は、クマが出没する小枝の森に接しているので、クマに遭遇する可能性がありますので、2013年に帰郷・帰農した年からずっとカナダ製のベア・ベルを使ってきましたが、それがないと、山側の畑に行くのにためらいが生ずるとか・・・。
磐梯の道の駅のなかを散策しているとき、3種類のベア・ベルが売られているのを発見・・・。 妻を呼び寄せると、妻は、品定めをして、3種類のうち気に入ったベア・ベルを2個買っていました。 妻は、めずらしく即断即決・・・! あと、小松菜と野沢菜の種を1袋ずつ買っていました。
そのあと、スーパーで日用品・食料品を買って帰ってきました。 帰り道、目に飛び込んできたガソリンスタンドのレギュラーガソリンの単価、1ℓ190円・・! 妻は、<あなた、ガソリンは、郡山の国道4号線沿いのガソリンスタンドで入れることにしましょう。 会津や猪苗代はガソリンが高過ぎるわ・・・>と話していました。
2023/08/31
会津坂下・磐梯の道の駅へ・・・
今日の棚田の田は風がなく草取りは朝5:30-9:30・・・
今朝4:30に起床・・・。 朝5:30~9:30、棚田のはえぬきの田でヒエ刈りをしました。
8:30を過ぎますと、はえぬきの田は完全に日が差し込んできて熱気を帯びてきます。 それにつれて私のあたまも火照ってきます. 風があるとそういうことはないのですが、今朝は無風状態・・・。 予定では10:00まで草取りをしようと思っていましたが、9:30で断念・・・。
草取りをしながら、日本基督教団西中国教区の山口のちいさな教会の牧師をしていたとき、教区総会で押し付けられた西中国教区部落差別問題特別委員会の委員をしていたときの活動内容を原稿用紙300枚(新書版1冊分)にまとめた『部落差別から自分を問う』が、日本基督教団部落解放センターによって没収・廃棄処分、<吉田牧師の取り組みは<なかったことにする>と名実共に削除されてしまいましたが、その『部落差別から自分を問う』の内容を思い返していました。 すでに忘れていたことも、いろいろ思い出していました。 教団部落解放センターの角樋平一主事も、元日本基督教団部落差別問題特別委員会委員長の東岡山治牧師も、『部落差別から自分を問う』の最後の文章を読んで、それでもなお、『部落差別から自分を問う』を没収・廃棄処分という、彼らが持っている<権力>を用いて<言論弾圧>をしてきたのか、彼らの真意をはかりかねていました。
今日も、妻のふるさと・湖南の赤津村は、東京・大阪・広島よりも気温が高く時間帯によっては猛暑日になる可能性もあります。 熱気を帯びた残暑が続いています。
2023/08/30
全111ページのうち77ページまで入力・・・
夜遅くまで、1996年に日本基督教団部落解放センターによって没収・廃棄処分にされた『部落差別から自分を問う』という原稿用紙300枚、新書1冊分のレポートをBlogger上の『ある部落差別問題に関するレポート』に移植する作業をしていました。
全111ページのうち1~78ページまでの移植を終えることができました。 残るはあと33ページ・・・。 ちょうど70%に達しました。 あと30%・・・。
田中美知太郎「良心」・・・
久しぶりに手にとったハンス・カロッサの『美しき惑いの年』からこぼれ落ちた新聞の切り抜き記事・・・。
京大名誉教授・田中美知太郎著「良心」・・・。
<良心などというのはもはや今日の言葉ではないであろう。 むろん良心的とい形容詞が特定の人たちについて使用されることは、今日のありふれた風俗に属するとも見られる。 しかしそれはおよそ非良心的な人たちと事柄についていわれているのだとすれば、良心が今日いよいよ廃語となりつつあることのしるしとも考えられる。
良心というのは、何よりもまず「われ知る」ということなのである。 何を知るのか。 それはわたし自身が何を考え、何をいているかを、他人は知らなくても、わたし自身は知っているということである。 天知る地知る我(われ)知るという場合の「われ知る」なのである。 西洋では古代ギリシアのデモクリトスに既にこの言葉がある。 「ひとりをつつしむ」という意味合いにおいてである。
その「知る」は多くの場合「自己否定」をふくんでいる。 自分の不足を知るのである。 わたしが正義の人であることからいかに遠く、自分がいかに悪であるかを知ることである。 そしてこのことをはっきりと知り、厳しく自己を批判するためには、他方において「正義」や「知」の純粋なもの、明白なるものを求める心がなければならない。 かかる志向と、それにもとづく自己否定の認識が、「われ知る」を構成するわけだ。 むやみに自己を正義そのものと混同し、自己を人類や人間と同一化することは、まさにその正反対でなければならない。 いわんや流行の合言葉に合づちを打つだけの無反省の人間が、良心的などと呼ばれたりするのは、およそ滑稽(こっけい)なことだといわなければならないだろう。>
午後、<第3章第1節 部落は近くにない>の入力・・・
午後、1996年に日本基督教団部落解放センターに没収・破棄された、新書版1冊分・原稿用紙300枚の私の原稿『部落差別から自分を問う』をBlogger上に移植するための入力作業をしていました。
今は、<第3章第1節 部落は近くにない>・・・。 入力しながら、<差別>の側に身を置いて、部落差別問題との取り組みを避ける教区・分区・教会、牧師・信徒の<暗さ>・・・。 聖書を読み、聖書のことばに深く影響されているにもかかわらず、聖書的人間観に立つことができず、日本の差別的な社会の生き方に埋没している現実・・・を読み直していますと、その<暗さ>がますます<暗さ>を増してきます。
<十年一昔>と言われますが、<十年一昔>は、<世の中は移り変わりが激しく、10年もたつともう昔のこととなってしまう。>という意味だそうです。 日本基督教団の隠退牧師になり、西中国教区から離れて今年で11年目・・・。 文字通り<十年一昔>になってしまったのですが、この十年は、西中国教区の教区・分区・教会、牧師・信徒にとって、部落差別問題とのかかわりにおいてどのような<移り変わり>をしたのでしょうか? <激しく>変化し、私が『部落差別から自分を問う』でとりあげたいろいいろな差別事象は、すでに<もう昔のこと>になっているのでしょうか? 克服されて<もう昔のこと>になっているのか、克服されないまま<もう昔のこと>になっているのか・・・。
<差別>の側に身を置くものの<暗さ>と比べて、私が山口の地で<日本基督教団の一牧師>としてであった被差別部落の人々の、差別されてもそれをはねのけて生きる人々の<明るさ>を思い出さざるをえません。 <十年一昔>、世の中が激しく移り変わり10年が経過しても、日本基督教団の隠退牧師としての私は、昔も今もこれからも変わらない・・・。 部落差別完全解消への願いと取り組みは、今も継続しています。 山口の地で部落解放運動をしている被差別部落の人々、また運動のない未指定地区の古老たちから聞いた彼らの先祖の歴史と伝承、差別をはねのけて生きる彼らの姿、死して灰になっても消え失せることはありません。
高校生のときに読んだ600冊の中の1冊、ハンス・カロッサ著『美しき惑いの年』ほ一節・・・。
<いっさいがより軽くより清純であるその世界に住んでこそ、われわれは過酷な騒がしい人生の中にあって、心底の願いを実現することのできなかった孤独の人々を、もっとよく理解することができるようになるだろう。それによって、たぶんわたしたちは、わたしたち自身の存在によってそういう人々の生の完成を進めていくことができるのではあるまいか。 そのことはわれわれ自身の天性への最も美しいおぎないとなるであろう。 われわれはわれわれ自身については知ることが少ない。 われわれの精神的な目は、われわれ自身を直接に認識することはできないような構造をもっているらしい。 われわれは他の人々にやどる可能性を、われわれ自身の中に耕して行かねばならなぬ。 そこからよい収穫が生まれ出るであろう、そしてわれわれは、その際われわれの払う労苦によって、われわれ自身に固有のものを、最も早く知ることができるであろう。>
午後0:00の居間の気温は30.7°C、湿度56%・・・
午後0:00の、居間の座卓の上の温度計は、気温30.7°C、湿度56%・・・。
少しく汗がにじみはじめました。 <残暑厳しき折>という言葉が文字通りぴったりの気候です。 <厳しい>のは、日差し・・・。 あたまを冷却するための帽子を被っていてもあまり効果がないときは、農作業を中止しないと、間違いなく熱中症になってしまいます。
今日は扇風機の風も生暖かい・・・。
久しぶりに、Amazon経由で注文している英語辞書の配達状況を確認しました。
Departed Aug 28 2023 03:38 pm · TOKYO,JP
PROCESSED THROUGH OFFICE OF EXCHANGE Aug 29 2023 11:58 am
CUSTOMS CLEARANCE Aug 30 2023 08:59 am
注文している英語辞書は、『Oxford American Dictionary and Thesaurus』 (Second Edition) 今使っているのは、『Oxford American Dictionary and Thesaurus』 (First Edition) と 『Oxford American Desk Dictionary and Thesaurus』 (Third Edition) ・・・。 価格は送料込みで前書が1,002円、1,090円と857円・・・。
幸せはどこにある・・・?
教団部落解放センターから没収・破棄されたときの部落解放センター主事との会話を思い出して・・・
今朝、棚田のはえぬきの田のヒエ刈りをしていたとき、1996年『部落差別から自分を問う』という原稿用紙300枚、新書1冊分のレポートが日本基督教団部落解放センターによって没収・廃棄処分にされたとき、教団部落解放センターの当時の主事の方と電話でなんどもやりとりしましたが、そのときの電話の内容を思い起こしていました。
筆者: あなたは、<部落民>であるかのように私に語りかけてくるけれど、あなたは部落出身者ではないでしょう?
主事: 私が部落出身であろうとなかろうと、あなたにはなにの関係もないでしょう。
筆者: 関係がないというなら、<部落民>であることをにおわせてそれを背景に強権的なものいいをする必要なないでしょう。
主事: あたなは、私が<部落民>でないとなんで判断するのか?
筆者: あなたが被差別部落や部落差別問題を語るときに使っている言葉から判断しています。
主事: 私がどんな言葉で話をしているというのか?
筆者: あなたが部落や部落差別についてかたるとき、左翼主義思想の用語や運動用語ばかりで話をしますので・・・。 私が山口の地で出会った被差別部落の人々の語る被差別民衆の言葉が全然出てこない。 あなたは左翼主義思想やその解放運動に興味はもっていても、被差別部落の民衆の声には関心がないのでは・・・?
主事: 彼らは、どのような言葉を使っているというんだ?
筆者: たとえば・・・(略)。
主事: 日本基督教団部落解放センターは、部落解放運動と連携しながらやってる。 被差別民衆の用語ではなく部落解放運動の用語で語っても不思議ではない。あたりまえの話だ。
筆者: 原稿を没収・破棄する前に、私に返却することは考えなかったのですか?
主事: 教団の部落解放センターと運動の方向性が違う動きで書かれた文章は<差別文書>とみなしてすべからく没収・破棄する・・・。 繰り返していうが、吉田牧師は、即刻、部落差別問題と取り組むのはやめろ。 日本基督教団の他の牧師には、部落差別問題と取り組めというが、吉田牧師には言わない。即刻、部落差別問題と取り組むのをやめろ。 それでもやめないというなら、日本基督教団の部落差別問題とは関係のないところでやれ! あなたの取り組みはなかったことにする!
1996年・・・、日本基督教団部落解放センター、西中国教区の部落差別問題との取り組み、京都教区の部落解放夏期研修会から完全に排除・疎外された年になりました。 今年になって史資料を整理していたとき、縮小印刷された『部落差別から自分を問う』を見つけましたので、GoogleのBlogger上で『ある部落差別問題に関するレポート』と題してパソコンのキーボードから入力しなおしていますが、なぜ、教団部落解放センター角樋平一主事や西中国教区部落差別問題特別委員会委員長東岡山治牧師から、<吉田牧師は即刻、部落差別問題と取り組むのはやめろ。 日本基督教団の他の牧師には、部落差別問題と取り組めというが、吉田牧師には言わない。即刻、部落差別問題と取り組むのをやめろ。 それでもやめないというなら、日本基督教団の部落差別問題とは関係のないところでやれ。>と切り捨てられることになったのか、再検証したいと思って、インターネット上で公開することにしました。
2005年、インターネットのブログ上で『部落学序説』を執筆することになった背景にある、日本基督教団の一牧師の私の部落差別問題や被差別部落とのかかわりははこの、GoogleのBlogger上の『ある部落差別問題に関するレポート』(『部落差別から自分を問う』)で知ることができます。
(注)『部落差別から自分を問う』に出てくる山口の被差別部落や被差別部落の住人の名前は実名です。 執筆当時、『部落差別から自分を問う』が私の観念的な文章ではなく、山口の地での実践結果のレポートなので実名で記載しました。しかし、今回、Blogger上で『ある部落差別問題に関するレポート』と題して再掲するとき、被差別部落の地名・人名はA/B/C・・などのアルファベットの記号に置き換えることにしました。
朝6:00-9:30、はえぬきの田のヒエ取り・・・
今朝5:00に起床・・・。 6:00~9:30まで、妻の実家の棚田のはえぬきの田のヒエ取りをしました。
朝8:30になるとはえぬきの田全体に日が射してきますので、あたまが熱気を帯びてきます。 熱中症になると回復するのに日数がかかりますので、あたまが熱気を帯びだしたと感じられたときは、すぐ作業をやめることにしていますが、今日は、少しく風がありましたので、湿度も低くなり1時間余分にはえぬきの田のヒエ取りをしました。 専用鎌で、ヒエを1本1本ていねいに根本から刈り取っていきますので、時間がかかります。 これが、田植えを終えたあとの3回目草取りになります。
今朝は、湖南の赤津村のプロの農家が軽トラでやってきて降りて近寄ってきましたので、すこしく立ち話をしました。 話の内容は、有機栽培によるコメつくりについて・・・。 その農家も、昨日NHKテレビで有機・無農薬栽培による稲作に関する番組を見たようです。 妻と私は、有機・無農薬栽培でコシヒカリ・はえぬき・ひめのもちを栽培するようになって今年で10年目になりますが、妻の実家の棚田の田の土壌・水環境・風力風向・平均温度・日照時間・・・等、有機・無農薬栽培に影響するさまざまな要因を考慮して、妻の実家の棚田の田で一番最適な栽培法を確定するために、2013年4月1日に日本基督教団の隠退牧師になり妻の故郷・湖南に帰郷・帰農する4~5年前から栽培計画を立てて、必要な農書や資料を集めていました。 2014年、生まれてはじめてのコメつくり、しかも、湖南のプロの農家が栽培不可能と言われるコシヒカリの栽培をはじめてその年、無事収穫することができました。最初の年の稲作で、妻と私の標高550mの湖南高原の棚田の田で有機・無農薬栽培でコシヒカリ・はえぬき・ひめのもちの栽培法が確立、10年目の今年までずっと同じ方法で有機・無農薬栽培でコメつくりをしています。 妻は、この10年間続けてきた有機・無農薬栽培のコメつくり法をこれからも踏襲していくことを強く主張します。 品質を向上させる改良はしても収穫量を増やす改良はしなくていいとか・・・。
今朝、立ち話をしたプロの農家の方、<除草剤をまいてもまかなくても、ヒエは同じように生えるな・・・>とため息をついておられましたが、棚田から戻るときそのプロの農家の稲田を少しく観察しました。 ほんとう、ヒエがいっぱい生えている・・・! 昨日NHKテレビで有機・無農薬栽培による稲作法・・・。いたるところで、説明不足がありました。 安易にまねをすると失敗すること必定・・・。 妻は、<草が生えているときのほうが美味しいお米がとれるわ。 あなたは草取りで大変かもしれないけれど、いままでの栽培法でいいわ。>と話していました。
2023/08/29
ブログの閲覧者は1~3名・・・
私のブログの閲覧者は1~3名・・・。
ほとんどの閲覧者は、インターネットの検索で、間違ってヒットして、私のブログに迷い込んだ人々であって、リピーターはほとんどいません。
私は、ひとりでも共感してくれるひとがいたらそれで十分と思って書き込みを続けていますので、ブログの閲覧者1~3名が継続して見てくださることはありがたいことです。 Googleの解析で、表示された閲覧者の場所は、三鷹市・東大阪市・神戸市・京都市・福島市・郡山市、山口県・広島県・岡山県・島根県・鳥取県・愛媛県・神奈川県・埼玉県・福島県・・・。
3市内からのアクセスが多いようです。
夜、第2章の入力を終える・・・
夜、1996年日本基督教団部落解放センターによって没収・廃棄された、私の原稿用紙300枚のレポート『部落差別から自分を問う』を、 Google の Blogger 上の『ある部落差別問題に関するレポート』に再掲する作業をしていますが、全11ページのうち70ページまでキーボードから入力することができました.
やっと、第2章の入力を終えることができました。
棚田の田の草取りと同じで、少しずつでも続けていけば、やがて『部落差別から自分を問う』の全文を公開することができるでしょう。 なぜ、日本基督教団部落解放センターから没収・廃棄処分にされたのか、その理由を知るためにも、原稿をほとんどそのまま転載しました。
日本基督教団部落解放センターだけでなく、元日本基督教団部落差別問題特別委員会の委員長をしていた東岡山治牧師からも<他の牧師たちが吉田牧師を切り捨てるなら東岡山治牧師の西中国教区での取り組みを支援すると言われ、吉田牧師を切り捨てることにした>と引導を渡されました。 それまで、参加を許されていた京都教区部落差別問題夏期研修会への参加も拒否され、教区・分区・諸教会での部落差別問題とのかかわりを一挙に喪失してしまいました。
切り捨てられた1996年から10年後、細々と取り組みを続け、実践編として書いた『部落差別から自分を問う』の続編として理論編『部落学序説』をインターネット上で公開執筆しました。 日本基督教団部落解放センターから言論弾圧を受け、再度原稿を没収・廃棄されないためです。 しかし、その『部落学』序説もプロバイダーによって数回、閲覧禁止・削除処分にされ、現在、Blogger 上で執筆しています。
私の誤算は、私の<部落差別完全解消への提案>は、<部落差別をなくすことは部落解放運動の消滅を意図したもので、運動団体に不利益をもたらすものは差別文書である。>との理解しがたい、承服しがたい<批判>にさらされたことです。
部落解放同盟S支部の支部長さんの笑顔を思い出す・・・
午後2:00の居間の座卓の上の温度計では、気温は31.1°C、湿度58%・・・。 座卓の前に座ってノートパソコンのキーボードから入力しているだけなのに、汗がじわっとにじみ出てきます。
日中無理をして農作業をしますと、わずか数時間の作業で体力を消耗し、元の状態に回復するの5~6日かかってしまいます。 それなら最初から無理をしないで、朝の気温が低いとき、朝の日差しが差し込んでくる前の数時間の作業を毎日継続した方が効率的・・・。
今日は、野菜直売所・湖南四季の里も休業日なので、妻も家にいてくつろいでいます。 昨日、湖南町赤津村の某組合の組合長さんに同行していくつか処理をしましたが、今年の某組合んの会計担当は、順番とかで私が担当することになりました。 しかし、昨年度の会計担当のかたからの引継ぎがなされず、組合長さんが昨年度の会計担当の方と交渉して、会計の引継ぎをしてくださいました。 一般会計だけでなく特別会計の口座の名義変更もなされていないので、組合長さんが<職権>で問題解決にあたられたようです。 今年の総会の時に配布された資料の特別会計の金額とあらたにつくった口座の金額と少しく違うことについては、来年の総会のときに組合長さんがみんなの前で説明されるとか・・・。 <吉田さんは一般会計のことだけ事務処理して、特別会計のことはかかわらないでいい>といわれるので、<組合長さんに委ねます>といって、会計の引継ぎ問題は終結に・・・。
それで、今日は、余念なく、Blogger 上に、1996年に日本基督教団部落解放センターに没収・破棄された、私の原稿用紙300枚、新書版1冊分の<レポート>『部落差別から自分を問う』を再入力しているのですが、今は、
第2章 差別意識を克服するために
第4節 差別意識とはなにか
第6項 差別意識が生まれるとき
をキーボードから入力していますが、部落解放同盟山口県連S支部の支部長さんの笑顔がしきりに思い出されます。 支部長さんの、日本基督教団の牧師である私に対する要望、その被差別部落が被差別部落であることを一般の市民がどうやって知ることになるのか、またその被差別部落の歴史と伝承を調べて、いいことも悪いこともありのまま報告してほしいと頼まれたことがきっかけに、徳山市立中央図書館郷土資料室にいりびたりで調査、その史資料に出てくる被差別部落を妻と二人で歩いて聞き取り調査をしました。 その結果が、ブログ『部落学序説』です。 S支部の支部長さんから調査依頼を受けなかったとしたら、無学歴・無資格 (Academic Outsider) で部落問題・部落史研究の門外漢である日本基督教団の<一田舎牧師>が『部落学序説』を執筆するようなことはなかったでしょう。
日本基督教団部落解放センターによって、<吉田牧師の取り組みはなかったことにする>と没収・廃棄処分にされた『部落差別から自分を問う』を再入力しながら、部落解放同盟山口県連S支部の支部長さんの笑顔が次から次へと思い出されます。 2013年日本基督教団の隠退牧師になり、山口の地を離れ、妻のふるさと福島で老後を過ごしていますが、妻も私もこころは山口の地につながっています。 部落解放同盟山口県連S支部の支部長さんは、私にとって、<忘れえぬひと>であると同時に<忘れてなるまじきひと>・・・。
全111ページの1~65ページまで再入力を終えました。
朝6:00-8:30、はえぬきの田のヒエ取り・・・
朝6:00~8:30、妻の実家の棚田のはえぬきの田のヒエ取りをしました。 全面にはえぬきの穂よりヒエの穂が高くなりました。 そのまま放置すると、湖南の赤津村のプロの農家からまたまた馬鹿にされかねません。
<よそもんはこれだからダメだなあ! コメをつくってのか、ヒエをつくってんのか、どっちだ! おらの田を見ろ、草1本生えてねえ! 規定通りに除草剤まいて効かなけりゃ、2倍にしてまくんだ、それでも効かなけりゃ3倍にしてまいたら、草1本生えなくなるな。 どうだ、恐れ入ったか! >
本心から言っているのか、ただ、よそもんの私をからかうために行ってるのか、定かではありませんが、毎年繰り返される日常茶飯事の出来事です。 <おらも農薬・除草剤を使わねえ! >と言っていたプロの農家も、最近は、せっせと農薬・除草剤散布に余念がありません。 <おめえだけでねえ、ここらで有機・無農薬でコシヒカリを作ってる農家はほかにいる! >と言われていた農家は、毎日農薬・除草剤のタンクを積んではしりまわっています。 どこからどこまでほんとうで、どこからどこまでがそうでないのか、語っている農家自身区別をつけることができないらしい・・・。
集落11軒のプロの農家ばかりの世界で、実際に自分でコメをつくっているのは、わずか2軒・・・。 そのうちの1軒は湖南農協の組合員でないので、稲作農家には数えられていない。 その農家は妻と私のことですが、有機・無農薬でコメを栽培して今年で10年目、妻は<田の草がとりきれないほど生えたときの方がお米が美味しい! >といいますが、草が繁茂するとイノシシがやってくる・・・。 イノシシがやってこない程度に田の草取りをしなければなりません。 すべてはほどほどにするのが一番・・・。
朝5:00の気温は23.5°C、湿度72%・・・
今朝4:00に起床、いつもの健康管理をして、『英訳聖書』(NSRV)を通読しました。
最高血圧は112、最低血圧72、脈圧差40、平均血圧85、脈拍数62、呼吸数15,体重62.0kg・・・。
今朝の5:00の居間の座卓の上の温度計は23.5°C、湿度72%・・・。 朝、ひんやりと感じられて、夏から秋へ徐々に移行していっているのが感じられます。 しかし、天気予報では今日も猛暑日・・・。 午前10時前までは気温は30°C以下、しかし、無風状態・・・。 午前10時を過ぎると真夏日になり午後には猛暑日になる可能性があるようです。寒暖の差が大きくなると、栽培中のコメが美味しくなります。 また寒暖の差が大きければ大きいほど栽培中のミニトマトが甘くなってきます。
午前中は、はえぬきの田とコシヒカリの田のヒエの穂刈り・・・。
1996年日本基督教団部落解放センターによって没収廃棄処分にされた私の論文『部落差別から自分を問う』(新書版1冊分・原稿用紙300枚)をBlogger上で『ある部落差別問題に関するレポート』として書き込みを続けていますが、現在111ページ中57ページに達しました。 今日の午後、
第2章 差別意識を克服するために
第4節 差別意識とはなにか
第5項 糾弾に学ぶ
をタイピングします。
2023/08/28
午後、1時間ほどまた仮眠・・・
午後、1時間ほどまた仮眠しました。
湖南町赤津某組合の組合長の方は誠実な方であってホッと一安心しました。 事務処理がきちんとできるお方であるようなので・・・。
妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農したときの第一印象が最悪だったことがいまだに影響しています。 <ここらは、盗ったり盗られたりしながらこれまでやってきたんだ。 よそもんが少々盗られたからといって文句いうんでねえ! 盗られてくやしかったら、おめえも他のところへいって盗ってきたらええべえ! それであいこだべえ! >と語っていたのは1人や2人ではなく、老いも若きも、男も女も大きなセリフを語っていました。
警察のすすめで、家や農機具の小屋、簡易温室の出入り口に全て施錠することにしたとき、<なして鍵をかけてんだ? オラがはいれねえでねえか! >と激怒していました。<ここらは、誰の家でも勝手に入ってええことになてんだ! >理解しがたいことを語っていましたが、玄関の鍵をしめて庭の奥の草を取っていたとき、玄関のドアを開ける音がしました。 それで、玄関先に行って、<なにかごようですか? >と問いかけると、<なんだいたのけ? いたら用はねえ! >と立ち去って行きました。 いろいろ盗まれることが多く、隣村の駐在所に電話をして善処をお願いしたところ、赤津村の農家は激怒していました。 <警察に電話すると、ここらから犯罪者を出すことになるべえ! そんなことは許せねえ!>とわけのわからない話をしていました。 あとで他の農家が、<あの家の親類が他所でコンビニ強盗を働いて、通報されて、逮捕されたんだ。 少し盗られたくらいで警察沙汰にされてみんな迷惑したんだ>と話していました。
ある農家は、<ここらのもんの話は全部、井戸端会議のそれだ。 全部聞き流せ! >と話していましたが、実害がともなう話しなので、聞き流しにすることはできません。 生前、妻の実家のおとうさんは、私が春と秋2回5~6日湖南に帰ってくるつど、湖南に帰郷帰農したあとの赤津村のプロの農家の方々との付き合い方をアドバイスしてくれました。 1軒ずつ、一人ずつ・・・。 おとうさんのアドバイスが的確であったことは、2013年4月に帰郷帰農してから身をもって経験させられることになりました。 そのおとうさん、<ここさ戻ってきても、他の農家にあがりこんではだめだぞ。 よそもんが部屋に入ると、あとでカネがなくなったと大騒ぎされ、盗ってもいないカネを払わされることになるぞ・・・>と話していましたが、そのおとうさんのアドバイス通り、他の農家の家の中に入ることはありません。
妻も、お父さんの言いつけを守って、おさななじみの家を尋ねることもありません。 妻がここらのもんと接するのは、共同作業のときか、野菜直売所湖南四季の里に有機・無農薬で栽培した野菜を出展するときのみ・・・。 ある農家が、古米のあきたこまちを新米のコシヒカリと交換してほしいと言ってきたことがありますが、妻はていちょうにお断りしました。 その農家とはいまだに犬猿の仲・・・。 あるときから、湖南の赤津村の農家とつきあう方法は、Holy Indifferent が一番いいと悟って、かかわることをやめてしまいました。
日本基督教団神奈川教区、西中国教区の教会で、意味不明・理解不能の事態(言葉と行為)に遭遇したとき、あえて意味不明を明らかにしようとしたり、理解不能なことを無理をして理解しようとはしませんでした。 理性的・論理的・信仰的ではない、他の牧師や信徒の言動はすべて、Holy Indifferent で対応していました。Holy Indifferent をしらなければ、山口での30年間、そして福島での10年間、生活と暮らしを続けることは不可能になったことでしょう。
午前中某組合長さんに同行・・・
午前中、湖南町赤津村の某組合の組合長さんに同行しました。
2か所を尋ねたのですが、私は、クマ除けのための諏訪神社の神木の杖を持ってでかけました。 しかし、私が想定していた場所とは違っていたので、このクマ除けの杖を使うことはありませんでした。
くるまのなかで、某組合の組合長さんと少しく話をしました。
組合長: 吉田さんはここのひとですか?
私: いえ、出身は岡山です。
組合長: 岡山ですか? 何をされてたんですか?
私: 高校を卒業したあと、大阪府の職員をしていて大阪市立中学校で事務をしていました。
組合長: え? 大阪府の職員をしていたのですか!
私: 地方公務員をしていた父が倒れて再帰不能になったので岡山に戻り、弟を中学校・高校・大学、妹を嫁に出すのに10年かかりました。 父がなくなたあと父親かわりで妹を嫁に出すために商社に入りました。 収入が倍増し、それにくわえてボーナスが5か月分でたので、妹にひとなみの結婚をさせることができました。 そのあと、母が、「あなたは10年も家のために働いてきたのだから、これからは自分のために生きなさい」といって大学に入ることとすすめてくれたのですが、岡山で学校の教師になる年齢を過ぎていましたので、日本基督教団の牧師になるために神学校に行きました。 そのとき神学校の幼稚園の先生として入ってきたのが湖南町赤津村出身のA子さんで、A子さんと意気投合して結婚することになりました。
組合長: 出会いって不思議ですね。
私: 神学校を出たあと2年神奈川県横浜市の教会で、その後30年間山口県下松市の教会で牧師をしていましたが、2011年原発事故が発生して、東海村原子力発電所で農閑期季節労働者に働いていたA子さんのおとうさんがショックを受け、「福島が放射能汚染されていたら、ここさ帰ってこなくていい」と話していました。私は「何があっても必ず帰ってくるから」と話していたのですが2012年1月1日に心臓発作で急逝しました。 認知症の症状が出ていたおかあさんをひとりにしておくことはできないので、準備をして、2013年湖南の赤津村に帰郷・帰農しました。
組合長: 今何をしてるのですか?
私: 有機・無農薬でコメと野菜を栽培しています。
組合長: 自給用ですか? それとも・・・。
私: 妻の実家の田畑は4.6反で5.0反の基準に満たないので農家になることができず、農協の正組合員にも準組合員にもなることができず、趣味の園芸程度で農業を続けています。
組合長: コメもつくってるのですか?
私: 山口にちいたとき、教会の内外の農家の方々から有機・無農薬栽培でコメと野菜の栽培方法を伝授されたので、その通りに実践しています。 早稲のひめのもち、中早稲のはえぬき、晩稲のコシヒカリを栽培していますが、収穫したコメの2.5~3.0俵は、すずめたちの餌になります。
組合長: 娘さんは何をしているのですか?
私: 私たちが福島に戻るとき娘も一緒に戻り、産業技術総合研究所・福島再生可能エネルギー研究所につとめていたとき福島県立某高校の教師の方と結婚、今、一人のこどもと3人で新築した家に住んでいます。
組合長: よかったですね。出会いって不思議ですね。
某組合の組合長さん、うわさで耳にとした私の<虚像>と、私から直接聞かされた私の<実像>との間のギャップに、何度も驚いておられました。 一番驚いておられたのは、高校を卒業して就職したのが、日本基督教団の牧師をしていたことより、大阪府職員で公立中学校の事務職員をしていたこと・・・。 <え? 大阪府の職員をしていたのですか!> 日本基督教団の隠退牧師になるとき、西中国教区事務所の方が退職に伴う年金関連の手続きをしてくださいましたが、そのとき公立学校共済年金の受給資格があるのを知って驚いておられました。 <吉田先生は大阪市立中学校事務職員(府費職員)採用試験に合格していたのですか? それならそうと言っていれば、もっといい教会の牧師に赴任できたのに・・・>と話しておられましたが、それは私の人生にどういう意味があったのか・・・?
組合長さんと2か所をまわったあと、家に戻ると、疲れですぐ寝てしまいました。 妻は、<あなた、ほとんどほかのひとと話をしなくなったから、ときたま話をすると、とても疲れるのよね。 話すってエネルギーがいるんですもの>と、私が目を覚ましたときそう語りかけてきました。
朝6:30-8:00生え抜きの田のヒエ取り・・・
今日の午前中は湖南の赤津村の某組合の組合長さんに同行することになっていますが、朝少しでも棚田のはえぬきの田のヒエ取りをしようと<ヒエ取り専用鎌>をもって自転車ででかけました。
とりはじめてすぐ、ヒエがはえぬきの田全面に繁茂しているのに気付きました。 1時間半取っても取り除くことができたのはほんのわずか・・・。 それで、今年のヒエの穂を取り除く方法を検討することにしました。 <ヒエ取り専用鎌>で刈り取ったヒエを田の外に持ち出すのは大変・・・。 それで、腰にかごをぶら下げてヒエの穂はその中に入れ、茎と葉は条間に放置することにしました。 穂だけとって茎と葉を残しておくと、バインダーで稲刈りをするとき不都が生じますので、茎と葉もできるかぎり取り除く必要があります。
出穂したヒエを取り除くのに、早くて2週間、毎日除草する必要がありそうです。
秋がしのびよる朝の気温は25°C、湿度71%・・・
今朝は4:00に起床・・・。 いつもの健康管理をして『英訳聖書』(NSRV)を通読しました。
5:00に階下におりて、居間の座卓の上の温度計をみますと、気温25°C、湿度71%でした。 庭の木々や観音堂の上の旗振山の木々もかすかに揺れていますので少しく風がありそうです。 少しくひんやりして、秋がしのびよってきているのを感じさせられます。
早稲のひめのもちは穂が垂れ茎や葉が黄色になっていますので収穫まじか・・・。 中早生のはえぬきは穂が垂れています。 晩稲のコシヒカリは東の山側の日当たりの悪いところを除いて穂が出揃い垂れ始めています。 季節が夏から秋に移りかけているのは、棚田の田の色彩をみても分かります。 山側の土手に秋の七草がさきはじめてすでに数週間が経過していますので、自然の草花は着実に秋に入っているようです。
今年の初夏から真夏にかけて、English Writingのために英語辞書を集めるのに時間と労力を費やしましたが、無学歴・無資格 (Academic Outsider) の私が使うことができる英英辞典の大半を Amazon経由で安価に入手することができました。 今、Amazonで検索してもこれといった英語辞書に遭遇しませんので、ほとんど英語辞書集めのエントロピー状態に達しているのでしょう。
事典類・ハンドブックの類の書籍はすでに十分保有していますが、辞典類の充実をはかったのは今年に入ってから・・・。 日本語(古語・漢語・外来語)の辞書、英語・仏語・伊語・西語の辞書、そのほか各種専門分野の辞書を集めました。 British English から American English への移行の決心は、私にとっては一大決心でした。 イギリス英語のそれまでの英和・和英辞典を捨て、アメリカ英語の英英辞典を使うことにしたのですから・・・。
私が書いた論文を自分で検証できるようなシステムを構築することができたのですから、今は、港に錨を下ろして停泊した状態・・・。 これから再び荒海に乗り出しても、直面することになる様々な問題を自力で解決していくことができるでしょう。
2023/08/27
今日も夕焼け・・・
今日もきれいな夕焼け・・・。
明日は、妻は農作業はやすみにするとか・・・。 私は、某組合の組合長と同行して山歩き・・・。 この前、組合長から電話があり、<小枝町の山は詳しいか? >と問いかけられたので、<いえ、小枝町の山はのぼったことがありません。 >と答えました。
明日午前中に組合長さんと一緒に小枝町の山にのぼることになったのですが、小枝町の山はクマが出ることで有名・・・。 それで、私は、諏訪神社の世話役をしていたとき蔦を除去しましたが、そのとき枯れた蔦をもらって、それで杖をつくりました。 仙人が持っているような杖・・・。 その杖で何をするのかといいますと、山にのぼるとき雑木の幹を軽く叩いて音を立てるため・・・。 クマは木々から出てくる音を耳にするとその場から離れていくそうです。 湖南史談会の Yoshidaさんと一緒に小枝町の城山に登ったとき、教えていただきました。 こどものころから1人で山歩きをしてきたそうですが、一度もクマに遭遇したことはないとか・・・。
私は、今年はまだ一度もイノシシにもクマにも遭遇したことはありません。 カモシカの鳴き声も耳にしたことがありません。 ところが、他のプロの農家の方々の話では、今年もイノシシやクマ、カモシカによる農作物被害が出ているのだとか・・・。 クマによく出会う時間帯は午前11:30~午後1:30の間・・・。 湖南の農家が昼休みをとって誰もいなくなった田畑にクマが歩いている姿を目撃することができます。 イノシシは日中でも遭遇しますが、確実にイノシシに出会うことができるのは朝3:00~5:00の間・・・。 特に、雨ありの朝はイノシシと出会う確率が高まります。
今年、私がイノシシやクマに遭遇しないのは、かれらが活動する時間帯には、家の中にいるためでしょう。
キリスト教会は被差別部落の人々にとってアジールになるのか・・・
キリスト教会は被差別部落の人々にとって<アジール>になるのでしょうか?
日本基督教団西中国教区の山口のちいさな教会の牧師をしていたとき、教会の役員会でしばしば取り上げられた議題です。
あるときまでは被差別部落の人々に対して<差別者>のような言動をしていた教会役員のひとりが、私が部落解放同盟新南陽支部の学習会に参加して、その被差別部落のおじさん・おばさんから話を聞くようになって、その生き方を教会役員会で報告したとき、その教会役員のひとりの方は被差別部落の関係者であることを明らかにしました。 そのおじさんは、部落解放同盟某支部の支部長・・・。 奥さんを離縁して、被差別部落出身の女性結婚、同和対策事業に参加する資格を獲得して同和事業を展開、そして某支部の支部長まで歴任したひとです。
その教会役員の姪をどのように部落差別から守るか、いろいろ話をされていましたが、彼らの計画は、東京女子大学に進学させ、そのあとアメリカに留学させて、高学歴・高資格をもたせれば、誰も被差別部落出身だと思わなくなり社会的に富と地位にある人と結婚できる・・・、被差別部落出身者にとって、キリスト教会はアジールに過ぎない、という話でした。 部落差別は、被差別部落出身の人が社会的に富と地位を得て上昇しようとすることを妨げることであり、もし、息子や娘が、一般の貧しい社会的地位の低い人と結婚しようとするなら猛烈に反対する、と話していました。
教会の中で起こる複雑怪奇な、部落差別問題については、牧師の度量をはるかに超えていましたので、私は、教会役員会に議題として持ち出して教会役員会、場合によっては信徒懇談会でオープンに話しあうことにしました。 キリスト教会は被差別部落の人々にとってアジールになるのか・・・。 教会が被差別部落の人々にとってアジールになるということが、被差別部落出身の人が被差別部落出身者としてではなく<差別者>の側に身を置いて生きることを選択すると同義であるならば、教会は決して被差別部落の人々にとってアジールになることはないでしょう。
教会は、自分の重荷を下ろす場所だけでなく、主イエスさまの前にいったん下した重荷を愛する人のために再び負い直す場所でもあります。 <自分の十字架を背負うてわたしに従ってきなさい>と弟子たちに語りかけられた主イエスさまは、<他人の十字架を背負うてわたしに従ってきなさい>とはすすめられませんでした。 自分の十字架すら満足に負えない私たちがどうして他者の十字架を担うことができるでしょう。 主イエスさまの十字架は、私たちが人生の逃亡者になることに終止符を打つ場所でもあるのです。 自分の十字架を負うて主イエスさまのみあしのあとに従っていくとき、主イエスさまご自身が私たちのアジールになってくださるのです。
もうひとつの経験・・・
差別事象・・・『部落差別から自分を問う』でとりあげる
差別思想・・・『部落学序説』でとりあげる
牧会事例・・・もうひとつの経験
私が牧師をしていた日本基督教団西中国教区の山口のちいさな教会は教会員の半数が被差別部落出身の関係者でした。 それは初代牧師が市会議員のとき他の市会議員との飲み会のときによく「おれは部落民のために教会をつくってやったんだ」と大きな声で話をしていたそうです。 その話は、その市の市議会の同和問題対策協議会の会長をしていた人から聞かされました。 その人は「吉田牧師がどんなに一生懸命に伝道しても教会員は増えないでしょう。 市民のほとんどの人はそのことを知っていますから・・・」と話をしていました。 その教会は前任者が自害したとされる教会で、私が後任として赴任したあとも教会は部落差別問題を含む様々な問題のるつぼと化していました。
被差別部落の関係者は、後任の牧師である私と私の家族に対して、「今度は、私たちが差別する番だ。 」といって、私たちに無理難題をふきかけてきました。 赴任してすぐ、被差別部落出身の教会員たちが、「私たちが招聘したのは牧師だけ。 奥さんとお子さんの分は謝儀から差し引きますから・・・」、赴任するときに交わしたお覚書の謝儀は半額に減額されてしまいました。 謝儀を半額にした理由は、「この教会には被差別部落出身の信徒がいます。 牧師とその家族は、被差別部落出身の一番経済的に困窮している教会員より貧しい生活をしなければなりません。 教会員の中にはくるまを持ちたくてももてない人もいます。 その人がくるまを所有できるようになるまで牧師はくるまに乗ってはいけません」。 「被差別部落出身の教会員の中には3日に1度しか風呂に入れない人もいます。 ですから牧師とその家族も風呂は3日に1度だけしか沸かしてはいけません」。 「牧師館にはクーラーがついていますが、被差別部落出身の教会員の家にはクーラーがついていない家もあります。 ですから牧師とその家族は牧師館のクーラーを使ってはいけません」。 「暖房も同じで私たちが使っていいというときまで使ってはいけません」。 「前任の牧師は、私たち被差別部落出身の教会員に献金を強制しました。被差別部落出身の教会員に献金を求めてはいけません。部落のものに献金を求めるのは、部落のものを搾取し、差別するのと同じです」。
ただ、教会員の半数は被差別部落出身ではありません。 彼らは、被差別部落出身の教会員の牧師と牧師の家族に対する無理難題を<人権侵害になるので反対!>の意志表示をされ、いろいろな問題が発生し教会役員会で議題にのぼる都度、激しい議論が展開されました。
そんな教会に30年間も身を置き続け、伝道と牧会に従事していたのですから、部落差別問題をめぐる<牧会事例>は多種多様、常識では考えられないような事例に度々遭遇させられました。 「牧師は奥さんと子供を離縁して、私たちが指名する被差別部落出身の女性と結婚すべきだ。 そうすれば被差別部落出身の教会員もあなたを牧師として認めるでしょう」。 「牧師が部落人を差別していないというなら、被差別部落出身の夫婦の教会員と夫婦交換すべきだ。 そうすれば、牧師が部落差別をしていないということを認めよう」。 そんな無理難題はまだ序の口で、「今度は、私たちが差別する番だ。 」と主張する被差別部落出身の教会員の言動はさらにエスカレートして行きました。
そのような教会で転機が訪れたのは、西中国教区のその教会に赴任して以来、西中国教区総会で西中国教区部落差別問題特別委員会の委員を押し付けられ、山口の地で部落差別問題との取り組みをはじめたとき、部落解放同盟新南陽支部の学習会に参加することを許され、被差別部落の人々からいろいろな話をお聞きする機会を与えられたときです。 教会の役員会で、部落解放同盟新南陽支部の学習会で知ったおじさん、おばさんの生き方を紹介、彼らと教会の被差別部落出身の教会員の言動の違いを話し合いました。なぜ、部落解放同盟新南陽支部の部落解放運動をされている方々と、被差別部落出身の教会員との間にこんな落差がるのか、教会役員会や信徒懇談会で話をしました。 やがて、被差別部落出身の教会員は、「今度来た牧師は、部落の内側から私たちを見ている。 いつか私たちのことをすべて知られることになる。なんとかしなければ・・・」と、牧師排斥運動が強化されることになりました。
教会のそのような現実は、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員会で報告しました。他の信徒委員の方々は、「西中国教区が吉田牧師に部落差別問題特別委員会の委員を押し付けたことでいろいろな問題に直面している。委員長は、吉田牧師の取り組みを応援すべきではないか」と問題提起してくださったのですが、そのときの委員長は、「吉田牧師は、元日本基督教団総幹事から切り捨てられた存在だ。 前任者が自害した教会で伝道と牧会ができると傲慢に赴任してきたことが問題、教会の部落出身の教会員から批判されているのは、吉田牧師が彼らから信頼されていない証拠、そんな吉田牧師をなんで、西中国教区部落差別問題特別委員会委員長の私が応援してやらなければならないのか! 今直面している問題は自業自得だ! 」と委員会の席上、私の目の前で言い放っていました。
そんななか、やがて『「部落民とは誰か」-「穢多」を尋ねて長州藩一人旅-』(『人権・反差別・共生 アファーマティブやまぐち21』(1997/第3号)掲載)に文章化されることになる部落差別問題に関する知見を養っていました。 日々、主イエスさまに祈りをささげ、<私の歩むべき道を示してください>と祈り続けました。 そして、私は、30年間、その教会に牧師として身を置き、普通の伝道と牧会に加えて、部落差別問題に取り組み続けることになりました。 <差別事象>とどんなに取り組んでも差別はなくならない。学者・研究者・教育者・運動家、日本の知識階級・中産階級の左翼主義思想の解放理論の背後にある<差別思想><賤民史観>を取り除かなければ・・・。
部落差別完全解消に至る最短の道は、<差別者>と部落解放運動から烙印を押される一般国民がどのような<被差別部落の人々>と出会うことになるかにかかっている・・・!
今日は暑さが少し和らぐ・・・
午前10:00の居間の座卓の上の温度計では、温度27.6°C、湿度63%でした。 今日は暑さが少し和らいだようです。 居間のレースのカーテンが揺らいでいますから少しく風があるのでしょう。
今日、郡山に住んでいる娘家族に2022年産有機・無農薬栽培のコシヒカリと夏野菜をいろいろ収穫カゴ1杯分を届けました。 孫の向学ちゃんは、赤や黄色のミニトマトのふくろをうれしそうに抱えていました。 向学ちゃんはまだミニトマトを食べたことがないようで、はじめて食べることになるようです。 米と野菜を届けたあとスーパーで食材を購入して家にモド追ってきましたが、午後2:00の居間の座卓の上の温度計は、温度28.4°C、湿度60%で、庭の木も風で揺らいでいました。
奥羽山脈の産森峠を越えるとき、妻は、<あなた、山の木々の色が少し変わってきたのでは・・・? 秋が忍び寄ってきているように感じるわ・・・>と話していましたが、行も帰りも妻は、朝の野菜の収穫と、収穫した野菜の湖南四季の里に出展するための作業で疲れていたためほとんど寝ていました。
妻が買い物をしている間、私は、猪苗代町での日用品・食品などの高騰した商品の価格と、郡山市内の同じ商品の価格を比較していましたが、 いつのまにか、郡山市内のスーパーの方が価格が低いことが分かりました。 猪苗代で1個268円で販売されている食品が郡山では224円 ・・・。 猪苗代のスーパーで売られている日用品・食料品は郡山市内のスーパーで売られている商品より20%高い・・・。 妻は、<買い出しは1週間に1回することにして、これからは郡山で購入することにしましょう>と話していました。
働かざるもの食うべからず・・・
働かざるもの食うべからず・・・
この言葉は『聖書』のことばです。 日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたときの30年間、私はずっと西中国教区謝儀基準の初任給以下の収入でした。 そのため年金も、西中国教区の他の牧師たちの収入・年金の50%以下・・・。 2013年4月1日に日本基督教団の隠退牧師になったとき、教会役員会から退職金の全額放棄を要求されそれを承諾しました。 私が牧師をしていた宗教法人も解散、教会の不動産はすべて宗教法人の包括団体である日本基督教団に寄付・・・。 解散手続きに必要な費用もすべて牧師の個人負担で行いましたので、妻のふるさと・福島県郡山市湖南に帰郷・帰農したその月から、自給用に、有機・無農薬栽培でコメと野菜の栽培をはじめました。 日本基督教団の隠退牧師としての私と妻の生活と暮らしは、年金暮らし&百姓暮らしでスタートしました。
働かざるもの食うべからず
という聖書の言葉は、<働いている限り食うことができる>という意味でもあります。 『聖書』によると、農業は、種をまくのはひと、その種の芽を出し、成長させ収穫させてくださるのは主なる神さま・・・。 農業は、最初から、主なる神さまの守りの中で行う人間の仕事・労働・・・。 主なる神さまに支えられて <働いている限り食うことができる>・・・。 隠退牧師になってから今年で11年目、主の導きと支えを覚え日々感謝の祈りをささげます。 <日々の糧を今日も与え給え>・・・。
今日は5:00に起床、朝6:00~8:30、妻の実家の棚田のコシヒカリ・はえぬき・ヒメノモチの田の電気柵の下の草を草刈り機で刈りました。作業を終えたとき、カギを開けて、トマトの雨除け栽培用トンネルの中に入り大玉トマトを3個収穫、1個を持って行っていたペットボトルの水で水洗いしたあと食べました。 採りたてのみずみずしいトマトは熱中症対策に最適・・・。 水だけでなく野菜の中に含まれているミネラルも補給できますので・・・。 棚田や段々畑で有機・無農薬栽培をするものにしか味わうことができない主なる神さまのめぐみもあるものですね。
2023/08/26
ものを見すぎると何も見えない・・・
夜、テレビで映画『ボーン・アルティメイタム』(2007年 サスペンス/アクション)を見ていました。
その最後に出てきた言葉のひとつは、<ものを見すぎると何も見えない>。 なにか意味深長な言葉のように思われます。 Google翻訳で<ものを見すぎると何も見えない>を訳してみますと、<If you look too much, you can't see anything. >と訳されました。
If you look too much, you can't see anything.
英文の原文は・・・? インターネットで検索してみましたが、見つけることはできませんでした。
差別事象と差別思想・・・
1996年の『部落差別から自分を問う』と2005年の『部落学序説』・・・、どちらも、パソコンのキーボードから再入力しているのですが、『部落差別から自分を問う』と『部落学序説』はどう違うのか・・・?
『部落差別から自分を問う』は、日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたとき、西中国教区総会で<西中国教区部落差別問題特別委員会>の委員を押し付けられ、その委員長から、西中国教区が広島の被差別部落の中でつくって維持・運営してきた私設隣保館としての<広島社会館>の活動には参加しないように、そして山口の地で新たな活動をするようにとの指示を受けて取り組みをはじめました。
そして4期8年に渡って<西中国教区部落差別問題特別委員会>の委員をしてきた無学歴・無資格 (Academic Outsider) で部落問題・部落史研究の門外漢である私が直面した様々な差別事象を原稿用紙300枚にまとめたものです。 今、読み返しながらタイピングしていますが、まったくの部落問題・部落史研究の門外漢である私がよくこんな文章を書けたものだと我ながら驚かされます。
『部落差別から自分を問う』で取り上げた差別発言は、ほとんどが高学歴・高資格を持った学者・研究者・教育者・運動家・行政担当者であったことから、部落問題・部落史研究の学者・研究者・教育者・運動家に内在する差別思想に関心を持つようになり、私なりの分析から、彼らの中の差別意識をささえているのは、左翼主義思想の解放理論にもとづく、被差別部落の先祖を<みじめであわれで気の毒な抑圧され差別された><賤民>であったとする<賤民史観>にあることを知り、その差別思想<賤民史観>を明らかにするために『部落学序説』を書き始めました。
『部落差別から自分を問う』は、私が日本基督教団部落解放センターや西中国教区の部落差別問題との取り組みから排除され、京都教区の夏期現場研修会から参加拒否を通告されることの原因になり、『部落学序説』は、部落問題・部落史研究の学者・研究者・教育者・運動家から反感を買うことに結果しました。 <賤民史観>は、彼らにとって研究と運動の基盤であったため、それを否定する吉田向学説は彼らの研究と運動に対する詐害行為と映ったのでしょう。無学歴・無資格 (Academic Outsider)、<どこの馬のほねかわからない>無名の一牧師の部落差別完全解消の提案は、現在の日本基督教団内外の部落解放運動にとっては許しがたい行為であったようです。
見た・・・!
午後、昨日の夕方、農機具の小屋の玄米保冷庫から取り出した2022年産有機・無農薬栽培のコシヒカリ30kg入り1袋の精米のため軽トラの助手席に積み込んでいるとき、見た・・・!
以前、私が妻のためにつくった農具を持って歩いているプロの農家の姿を・・・! その農家、<ここらは盗ったり盗られたりしながらやってきたんだ。 少々盗られたからといって文句いうんでねえ! 盗られてくやしかったら、おめえも他の農家から盗ってきたらええべえ! それであいこだべえ! >と居直り強盗みたいな話をしていた農家のひとり・・・。
2013年妻のふるさと・湖南に帰郷する前、妻の実家のおとうさんから<Aはこどものころから盗み癖がある。 おとなになっても変わらねえ、帰ってきたら気をつけろ>とアドバイスされていたのですが、盗まれたのはひとつやふたつではない。 そのひとつを、手にもって使っているのを見た・・・! 盗んだ農具を盗まれた持ち主の前で堂々と使うそのあつかましさ・・・、もしかしたら、盗んだことも忘れてしまう認知症になりかけていいるのかもしれません。 盗ったり盗られたりすることに自制心が働かなくなるのは、認知症の初期症状・・・。
妻は、大きな声で、<盗った方は盗ったことを忘れるかもしれないけれど、盗られた方はいつまでも覚えているからね! >とその農家の背中に語りかけていました。
もしかしたら・・・?
1996年、日本基督教団西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員を4期8年間<させられていた>時の、無学歴・無資格 (Academic Outsider)の私の取り組みを原稿用紙300枚(新書版1冊分)にまとめたものが、日本基督教団部落解放センターからその原稿を没収・廃棄処分にされた『部落差別から自分を問う』ですが、この前、山口から妻のふるさと福島へもって返った部落問題・部落史研究関連資料を整理していたとき、その原稿をプリントアウトしたものが出てきました。 それで、Blogger上で、『ある部落差別問題に関するレポート (1996年日本基督教団部落解放センターによって没収廃棄処分にされた論文『部落差別から自分を問う』の再掲)と題して<再掲>する作業を進めていますが、キーボードからタイピングしながら、ふと思ったことがあります。
日本基督教団部落解放センターと西中国教区・京都教区の取り組みから排除・疎外された理由と、部落解放同盟山口県連に出入り禁止をされた理由とが、同じではないかと思いました。 その理由とは、<吉田さんはラディカルだから・・・>というもの。 私は無学歴・無資格(Academic Outsider)で、部落問題・部落史研究の門外漢、しかも非政治的な存在で哲学は好きでも思想が嫌いな保守的な存在、それをラディカルだといって排除疎外するのは当時は解せなかったのですが、日本基督教団部落解放センターによって没収廃棄処分にされた論文『部落差別から自分を問う』をあらためてキーボードからタイピングしながら、<さもありなん・・・>と思わされるようになりました。
無学歴・無資格(Academic Outsider)で部落問題・部落史研究の門外漢ならではのラディカルというのもありそうです。 左翼的ラディカルとも右翼的ラディカルとも異なる、徹底的に合理的に追求しようとする合理的ラディカル・・・。 私が所属している教会は、カトリックではなくプロテスタントの改革派・・・。 改革派の<改革>は常に日々新たに改革し続けるという意味ですが、日本基督教団部落解放センター・西中国教区部落差別問題特別委員会も部落解放同盟山口県連も、彼らの運動の枠内で運動に参加するもののみを許容し、その枠内に収まらないものは徹底的に排除・疎外する<思想>団体・・・。 <思想>ではなく<哲学>に生きる私には、遠い存在だったのかもしれません。
それなのになぜ部落解放同盟新南陽支部とのかかわりは30年間も続いたのか・・・。 それは、新南陽支部の学習会を通じて、学者・研究者・教育者・運動家だけでなく、その被差別部落の名もなき民衆、おじさんやおばさんにであって、その生き方や差別に対する闘い方を学ぶことができたからなのかもしれません。 そのおじさんやおばさんの語る話に耳を傾けることで、私の中にある差別性が根こそぎもぎとられていきました。 『部落学序説』は彼らに対する恩返しのつもり・・・。 もし印税が入るようなことになれば、部落解放同盟新南陽支部部落史研究会の研究資金にすることにしていましたが、2013年日本基督教団の隠退牧師になり山口の地を離れ妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農したとき、私が牧師をしていた教会の宗教法人解散とともにはかない夢と消えて行ってしまったようです。
熱中症の症状から完全に脱出・・・
朝2.5時間草刈りをしていて、熱中症の症状から完全に脱出することができたようです。
朝の日差しにあたっても、からだの中に熱がこもることはありませんでした。 今日は温度は30°C超えの夏日でも、湿度が低く58%、風も少しあり、快適に草刈り作業をすることができました。
農作業をするときは、水で濡らしたタオルを首にまき、水であたまを冷却するための農作業用帽子をかぶって作業しているのですが、それでもあたまの中が火照ってくるときは熱中症になりかけている初期症状なのですぐ農作業をやめた方がよさそうです。 この前、段々畑の草刈りで無理をして草を刈りつづけたのがよくなかったようです。 いったん熱中症症状が出るとその状態から脱却するのに5~6日かかります。 <急いては事を仕損じる>のことわざの通り・・・。
朝5:00に起床、6:00-8:30棚田の田の通路・農道の草刈り・・・
今朝は5:00に起床・・・。 6:00~8:30棚田の田の通路と西側の農道の草刈りをしました。
しばらく見ない間に、早稲のヒメノモチの穂は垂れ下がり色づいて収穫時期が近づいているようです。 今年は文字通り常時湛水栽培ですので、今朝もヒメノモチの田には水が入っていました。 中早生のはえぬきも穂が垂れ、晩稲のコシヒカリも穂が出揃ったようです。 はえぬきとコシヒカリの田も水が入っていました。
通路と農道の草は草丈40~50cmの草も少なくありませんので、上から下へ10cm刻みで草刈り機を走らせそのまま草マルチ状態にしました。 刈ったあと熊手で刈った草を集めて片付ける必要なないので・・・。
8:30頃は、すっかり朝の日差しが差し込んできますので草刈り作業を中止しました。 農道側の土手と畔の草刈りは明日の朝に行うことにしました。
帰り際、雨除け栽培用トンネルの中に入って、大玉トマトを3個採って、そのうち1個を持参していたペットボトルの水で洗ってミネラル補給と水分補給を兼ねて食べました。 やはり、朝の採りたてのトマトは美味しいですね。 水だけ補給するよりトマトと一緒に水を補給した方が熱中症対策になります。 カギを開けて雨除け栽培用トンネルの中に入ろうとしたとき、私より先にアブとオニヤンマが入ってきました。 入ると出口がないので、オニヤンマは保護してトンネルの外に出してやりました。 今日は温水田脇の通路の草を刈っているとき何匹もウシガエルに遭遇しました。ウシガエル、なにしているのでしょうね?
2023/08/25
私の原稿用紙300枚の文章はなぜ日本基督教団部落解放センターによって没収・破棄されたのか・・・
午後、Bloggerの『ある部落差別問題に関するレポート』に<第2章第3節 繰り返される差別発言>を書き込んでいました。
この原稿用紙300枚の文章の元の表題は『部落差別から自分を問う』ですが、この『部落差別から自分を問う』は、日本基督教団部落解放センターから原稿の提出を求められそれに応じたところ、<この原稿は没収・廃棄処分にした>との通告を受けました。 なぜ没収・廃棄処分にされたのか、当時の部落解放センターの角樋平一主事に電話して確認したところでは、執筆者である私の納得のいく返答は返ってきませんでした。 角樋主事は、
1.吉田牧師は即刻部落差別問題との取り組みをやめるように
2.京都教区の牧師たちは吉田牧師の文章は評価に値しないと判断、
3.西中国教区部落差別問題特別委員会委員の東岡牧師も没収・廃棄に賛成し、吉田牧師を教団・教区の部落差別問題との取り組みから外すことを承諾している・・・
と話していましたが、なぜ、没収・廃棄処分にするのか、その理由を聞くことができませんでしたが、電話での激しいやりとりのあと、角樋主事は、<没収・廃棄したのは、吉田牧師が日本基督教団部落解放センターのこれまでの取り組みを横取りしようとしたからだ!>といって電話を切られました。 その電話を最後に、私は、日本基督教団のすべての部落差別問題との取り組みから排除・疎外されていきました。
日本基督教団部落解放センターの角樋平一主事は、<それでも部落差別問題に取り組むというなら、日本基督教団の取り組みとは関係のないところでやれ!>と話していましたが、日本基督教団部落解放センターの理不尽な言論弾圧を受けた私は、文章を書いても没収・削除されないインターネットのブログ上で部落差別問題について発信することにしました。 それが『部落学序説』です。
『部落差別から自分を問う』の111ページのうち45ページまで『ある部落差別問題に関するレポート』に再掲することができました。 全部再掲するにはまだまだ時間がかかります。
朝9:30~10:30庭の草抜き・・・
朝、9:30~10:30、妻の実家の庭の草抜きをしました。
草を刈っただけではすぐ生えてきますので、1本1本ていねいに草抜きをしました。 といってもすっかり根を張った草丈20cmの草を抜き取るのは力がいります。 それで、抜き取る草を持ち上げて、その周囲の土を特別な鎌を使って何度も突き刺しますと簡単に抜き取ることができるようになります。
野菜直売所に収穫した野菜を出展して帰ってきた妻が、<こんなに暑い日に庭の草取りをするなんて、やめましょう。 ふたりとも歳が歳なんですから。>といいながら庭においてあったホームセンターで購入した花の苗のポットを移動していました。 それで花の苗のポットとあった場所とスズメの餌場の草を抜いて草取りをやめました。
スズメの餌場の古くなった玄米は取り除いて、あたらしい玄米を散布してやりました。 最近はスズメたちの餌も豊富になったのか庭の餌場にやってくるスズメは7~8羽・・・。多いときには70~80羽のスズメが有機無農薬栽培のコシヒカリの玄米を食べてきていたのですが・・・。
今朝の健康管理と天気・・・
今朝4:00に起床・・・。 いつもの健康管理をしました。 最高血圧117、最低血圧75、脈圧差42、平均血圧89、脈拍数62、呼吸数15、体重61.8kg・・・。 そのあと『英訳聖書』(NSRV)を通読しました。
朝6:00の居間の座卓の上の温度計は24.8°C、湿度75%でした。 少しくひんやりとした感じですが、湿度が高いので、少しく体を動かしていますとすぐ汗がにじみ出てきます。
昨日の夕食、食材の中にアレルギー物質が含まれていたようで、私はアレルギー症状に襲われました。 思いがけない食材にアルカロイド系のアレルギー物質が含まれていたようです。 収穫したあとの野菜の中でアルカロイドが製造されることもあるのですね。
言語は単なる記号・・・
言語は単なる記号・・・
言葉そのものに力はないと思っているのですが、日本は言霊が生きている社会・・・。 奥山益朗編『罵詈雑言辞典』に掲載されている言葉は、その言葉が発せられるだけで言葉の持つ<霊力>を相手に及ぼすことができる・・・。
私は日本語の文章を読むときも言霊に影響されず<言語は単なる記号>として言語の持っている意味を<解釈>するのが常ですが、 最近英語辞典を読んでいて楽しくなるのは、第二外国語でしかない私の英語力では、英単語は単なる記号であって<言霊>の影響は100%ありません。 英語で文章を書いて、日本語に逆翻訳することは、日本語の持つ<言霊>の霊力を取り除き、単なる記号としての言語表現をすることができそうです。 しかし、それを受け取る側が<言霊>にとらわれていますと、私の文章は百人百様に受け取られることになりますので、どの程度、単なる記号としての言語表現ができるかどうか見通しを持つことはできません。
昨夜、Collocation Dictionary を読み比べていましたが、現代アメリカ英語のコロケーション辞典を読むのは、楽しい・・・。 English Writing するときの語彙と用法を大幅に増強できそうです。
朝、Sever2012R2/ChromeOSFlex*2/Windows11*2の保守・・・
朝、Sever2012R2、ChromeOSFlex×2台、Windows11Pro×2台の保守作業をしました。
最近は、Windows11Pro & Google Chrome のインストールされたノートパソコンだけを集中的に使用しています。
Windows Server 2012R2は、再インストールしたままほとんど使用していませんが、まだ Update が可能なようで今朝Updateしました。 ChromeOSFlex1台は電源が落ちていましたので再起動・・・。 再起動するのは、操作が結構煩雑です。 もう1台は、すぐ使用することができました。 寝室のディスクトップのWindows11Proは毎日1回は起動していますので保守の必要はなし・・・。
私のクライアントサーバーシステムは、日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたときに教会役員会の要請でかなり早い時期から副業で情報処理関連の仕事をしていましたが、現在のサーバー×1台、クライアント×5台はその名残り・・・。 75歳になり後期高齢期に入った私には2台のパソコン (1台は予備) があれば十分です。 ただ、手元にあるものを使わない状態で保存したり、廃品として廃棄するにはしのびないので、いつでも使える状態に保っています。
2023/08/24
<第2章第2節 あらたな差別発言>を入力・・・
午後、Blogger上の私のブログのひとつ『ある部落差別問題に関するレポート』の
第2章 差別意識を克服するために
第2節 あらたな差別発言
を入力していました。 このブログは、筆者の『部落差別から自分を問う』のブログ上での再掲です。 原稿用紙300枚で新書版1冊分の文章ですが、その<はじめに>に記しているように、<1995年の夏、京都教区の部落差別問題夏期研修会に参加した際、近江平安教会の N さんから、「いままで、いろんな話を聞いてきたけれど、一度文章で書いたものを読んでみたいわ。 もう、自分の差別性を見つめながら、部落解放運動にかかわることでどう自分が変わったか、書けるんとちがう。 絶対に読むから書いて・・・」と言われて、「文章を書くのは苦手だけど、挑戦してみるかな・・・」と返事したことに端を発します>。
1996年1月にこの『部落差別から自分を問う』を書きあげ公開したとき、思いがけない事態が待ち構えていました。 日本基督教団部落解放センターから原稿を提出するようにといわれ提出したところ<没収破棄した>との通知を受けました。 当時の教団部落解放センター角樋主事は、私に部落差別に取り組むことを即刻やめること要求・・・。 理由を尋ねたところ、<日本基督教団部落解放センターがこれまでやってきたことを横取りするな! 吉田牧師の取り組みはなかったことにする!>とのことでした。 西中国教区部落差別問題特別委員会の東岡委員長からは<西中国教区の他の牧師や信徒たちからの要請で吉田牧師を教団教区の部落差別問題の取り組みから排除する>との<切り捨て>宣告を受け、京都教区の部落差別問題夏期研修会にも参加拒否の通告を受けました。 私の『部落差別から自分を問う』は、教団・教区の部落差別問題に取り組んでいる牧師や信徒に激しい拒否反応を引き起こしたようです。
今日、キーボードから入力していた第2章第2節にこのような一節がありました。
<西中国教区の教育セミナーで、このようなことがありました。 登校拒否が主題として取り上げられた時のことですが、参加したキリスト者で、学校の教師であった人が、自分の実践事例を話されたことがあります。 それは、言語障害を持つこどもの話しでした。 最初、その人は、自分のところにやってくるこどものことを、「言語障害を持つこども」と呼んでいましたが、話が進むにつれて、「どもりのこども」と呼び方を変え、最後になると、そのこどもを「どもり」と呼び捨てにしていました。
私は、そのとき、その場で、「あなたの発言は差別発言である」と指摘してその理由を話しました。 「障害をさす用語、しかも差別語を用いて、こどもの全人格を表現するのは差別である」と。 そのとき、そのひとは、「あなたは、私のことばじりをとらえて、わたしの教師としての全生涯を否定するつもりか!」と激しく立腹されました。 そのできごとは、まだわたしの記憶になまなましく残っています。 そのとき、教区議長は、「私たちは長い間、障害者差別問題と取り組んできた。 しかし、これでは、最初からやり直しをしなければならないではないか・・・」と嘆いておられました。>
1996年に教団・教区における部落差別問題との取り組みから疎外・排除されて10年後の2005年、インターネットのブログ上で『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆を開始したのですが、西中国教区の多くの牧師たちの評は、<負け犬の遠吠えに過ぎない>というものでした。
釈迦に説法するのは難しい。 しかし、ほんとうの釈迦は、それがだれであれ真実を追求し語るもののことばには耳をかたむけると思われるのですが・・・。
午後軽トラの錆落としと塗装作業・・・
午後、居間の座卓の上の温度計は気温31.5°C、湿度56%・・・。 庭の外に出ると熱風が吹きつけてきます。
軽トラの屋根がかなりさび付いた部分が増えてきましたので午後錆止めを塗って、この前ホームセンターで買ったSUZUKI用の塗料を吹き付けることにしました。
2013年4月、妻の故郷湖南に帰郷・帰農した際に農作業に必要なので近くの自動車整備工場に注文したのですがそのあと音沙汰なし・・・。 帰郷と同時に有機・無農薬栽培をはじめた妻と私は軽トラの必要に迫られて、娘のアドバイスで郡山の軽自動車専門の販売店で購入することになりました。 あとでわかったことですが、妻の親類・親戚筋の人が<吉田はカネさ持ってねえ、軽トラ売っても代金回収できねえぞ>とうわさを流したため最初に注文した自動車整備工場は私に軽トラを販売するのをためらっていたのでした。
それから今年で11年目、妻がオートマ専用免許なので軽トラもオートマにしました。 いまでは軽トラは妻の必需品・・・。 野菜の収穫も野菜直売所湖南四季の里に出展するときもフル活用・・・。 田畑の運搬作業にミニクローラを使っていますが、こちらも妻専用・・・。 軽トラは走行距離は6万kmを超えたところ・・・。 まだまだ使うことができそうですが、あちらこちらに錆がきはじめていますので、錆落としてをして塗装することにしました。
それにしても、今日も猛暑で暑い・・・。
半角スペースの使い方を確認・・・
午前中、新しいノートにEnglish Writingと表題をつけました。
そして最初に書き込んだのは、英語で文章を書くときの半角スペースの使い方・・・。 通常半角スペースは表示されません。 MSWordでは、文書単位で半角スペースを表示できますが・・・。 Mifesも可能です。 Bloggerのエディタで半角スペースを表示させる方法はまだ知りません。
毎回Grammarlyで指摘されるのもよろしくないので、午前中、半角スペースの使い方を総合的に学習しなおしました。 英語の句読法については何冊も持っているので、すべてチェックすることにしています。
『同時通訳』で正しい半角スペースの使い方をチェックしてみました。 半角スペースの使い方を間違うと正しい英文にならないし、正しく翻訳もされなくなるのですね。
They are A,B,and C. ⇨ 彼らは、A,B,andCです。
They are A, B, and C. ⇨ 彼らは、A、BとCです。
Grammarlyは、<They are A,B,and C.>のAとBのカンマのあとに半角スペースを挿入するように指摘してきます。
<彼は夫、父、牧師です。>とGoogle翻訳にかけると<He is a husband, father and pastor.> <彼らは夫、父、牧師です。>を訳してもらうと<They are husband, father and pastor.> 前者は<彼は夫でもあり父親でもあり牧師でもあります>の意、後者は<彼らはのなかには夫もい入れば父親もおり牧師もいる>という意味・・・?
ともかく、Google翻訳&Grammarlyで英語の文章を書くには、使う側にある程度の英語力が必要です。 基本的な英語文章作成力を身に着けたうえで English Writingに入ります。
今日は日中の農作業は無理・・・!
午前10:00ころ家に戻ってきた妻が<今日は日中の農作業は無理・・・。 風は少しあるけれど、日差しがあつくてあつくて・・・>と話していました。
妻は、<湖南四季の里に行って、ソフトクリームとアイスキャンディーを買ってくるわ>といって小銭入れをもってまた出かけて行きました。 そういえば、物価高騰で、最近、ソフトドリンクもアイスも購入していませんでした。 ネスカフェのインスタントコーヒーやアールグレイという紅茶、麦茶を冷やすために、猪苗代のリオンドールというスーパーで買ったかち氷を入れて飲むだけ・・・。
この前、いつも買っていたヨーグルトが高くなったので半額のヨーグルトに替えましたが、今朝はじめてそのヨーグルトを食べました。 なにか同じヨーグルトと思えないほど不味いヨーグルト・・・。 いままで購入していた絹豆腐のようなヨーグルトと比べて半額のヨーグルトは賞味期限が切れる前の木綿豆腐のよう・・・。 それで、元のヨーグルトに戻すことにして、摂取量を減らすことにしました。 1回の摂取量を減らすことで物価高騰に対応することに・・・。
朝、野菜直売所湖南四季の里から電話が・・・
朝、野菜直売所湖南四季の里から電話がありました。
なにでも、郡山に住んでいる方から<明日湖南四季の里に行くので、吉田A子さんの大玉トマトを取っておいてください>との電話があったとか・・・。湖南四季の里には、プロのトマト栽培農家の方々も出展していますので、大多数のお客さんはそちらの大きさも形もそろったスーパーで販売されているようなトマトを買って行かれるのですが、なかには、妻が有機・無農薬で栽培した完熟トマトを買って行ってくださるお客さんもいます。
今、妻が湖南四季の里に出展している大玉トマトは2Lサイズ・・・。 妻は<完熟するのを待っていたら2Lサイズになてしまうの・・・>と話していますが、完熟した大玉トマトは果肉がしっかりしていてトマトのなかのステーキのようなトマト・・・。 私は毎食この2Lトマトを1個食べていますが、そのまま食べたり、ウスターソースをかけて食べたりしています。
私はこどものころ食べた青臭い感じのする完熟する前のピンク色のトマトが好きですが、妻は、完熟してからしか湖南四季の里に出展しません。 今は、マイルドな味のするトマトがトレンドなのだとか・・・。
人生の晩年の執筆計画を明らかにしたところで・・・
人生の晩年の執筆計画を明らかにしたところで、このブログ『隠退牧師の百姓日記』において、部落問題・部落史研究に関する記事の掲載は中止することにしました。
ブログ『My Practice of Writing in English』・『Historical Truth of Discriminated Burakumin』・『A Pastor's Encounter with Burakumin』の書き込みに専念することにします。
『隠退牧師の百姓日記』は、<百姓日記>に特化して書き込みを続けます。
部落問題・部落史研究関連書籍は300冊・・・
ブログ『部落学序説』執筆後に集めた部落問題・部落史研究の関連書籍は約300冊・・・。
京都大学大学院を出られた日本文化史研究者の<同和対策事業終了と共に部落問題・部落史研究の学者・研究者・教育者・運動家が大量に部落問題・部落史研究関連の本を放出しはじめたので、古書の価格が下がっている、今が安価に部落問題・部落史研究関連の史資料・論文集などを集めるチャンス>とのアドバイスを受け、インターネットの日本の古本屋経由で部落問題・部落史研究関連の史資料・論文集を集めたのが約300冊・・・。
<わずか300冊の本を読んで、無学歴・無資格者が『部落学』を執筆しようとするなんて傲慢にもほどがある>との、ブログ『部落学序説』の筆者である私に向けられた揶揄は昔も今も変わりません。
日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたときには、山口県立図書館や徳山市立中央図書館の2階の郷土資料室の部落問題・部落史研究に関する文献を自由に閲覧することができましたし、そこで手に入らない史資料は部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々から提供を受けました。 しかし、2013年日本基督教団の隠退牧師になり、妻のふるさと福島県郡山市湖南町に帰郷・帰農してからは、陸の孤島のような湖南町赤津村にあっては、図書館に通うのは東西南北片道40~50分くるまを走らせなければなりません。 簡単に図書館で調べることはできません。 湖南町の公民館の本は、館長の<よそもんにはここらの歴史資料を閲覧させることはできない>との方針で閲覧が許可されず、部落問題・部落史研究とは別に湖南町赤津村関連の史資料もインターネットの日本の古本屋経由で集めることにしました。 湖南史談会の会員の方々より湖南町赤津村の関連書籍を多数保有することになりましたが、論文を執筆するためには書斎の蔵書を充実する必要に迫られ、結局3600冊の蔵書を保有することになりました。
私がみることを許された大学教授の書斎には、2~4万冊の本が図書館の書棚のように並んでいました。 無学歴・無資格 (Academic Outsider) の私の蔵書数は10分の1以下・・・。 おのずと、無学歴・無資格 (Academic Outsider) の私には学問的<謙遜>さが身にまとわりつくことになりました。 中学生のとき学年330人中7番の成績をとったのは中学3年の学年末テストでした。 どんなに努力をしても私が超えることができなかった人が6人いました。 そのうち3人は女生徒とでした。
<過ぎたるは及ばざるが如し>ということわざもあることですから、人生晩年の執筆活動のための蔵書は3,600冊でよしとしましょう。
今朝は気温24.9°C、湿度79%・・・
今朝4:00に起床・・・。 いつもの健康管理をしました。 最近は朝ではなく風呂上がりに健康管理をしていました。 血圧は少しく高めの日が続いていましたが、今朝は最高血圧118、最低77、脈圧差41、平均血圧91、呼吸数15、体温35.9°C、体重61.6kg・・・。
今朝6:00の居間の座卓の上の温度計は気温25.0°C、湿度79%・・・。 今朝は少しく涼しさを感じましたが湿度が高い・・・。 昨日の熱中症状をなくなりましたが、今日の農作業は中止・・・。 妻は、野菜直売所湖南四季の里に出展する夏野菜の収穫にでかけました。今朝は、マスクメロンを収穫できるかどうか確認するのだとか・・・。 朝はとても笑顔・・・。 <わたしはあなたより8歳若いから。 あなたは今日は休んで・・・>といってでかけました。
今朝見た夢は、声だけ・・・。 姉が私に呼び掛けてくる声、<みっちゃん>・・・。 姉は、この春逝去していましたが、コロナのため家族葬にしたそうで、来年1周期のときにみんなで姉の思い出話をする場をもうけるとか・・・。 毎日姉のことを思い出さない日はなかったのですが、昨日は熱中症の症状で体調不良になって姉のことを思い出しませんでした。 そのためでしょうね、今朝、姉の<みっちゃん>という呼びかけで目が覚めたのは・・・。
2023/08/23
『部落学』も視点・視角・視座に変更なし・・・
すでに公開している『部落学序説』とあらたに書くことになる『部落学』・・・、執筆者の吉田向学の視点・視角・視座に変更はありません。
『部落学』は、『部落学序説』の主要なテーマに対して、史資料の批判 (学問的研究)を駆使して論文の体裁をとります。 しかし、学術用語は多用しないで『原田伴彦著作集』や『原田伴彦論集』の文体のように誰でも読んですぐ理解できる文体にします。 『原田伴彦著作集』や『原田伴彦論集』を精読することで、その文体を私淑していきます。
ブログ『部落学序説』を執筆しはじめたとき、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々から<誰でも読める>文章にしてほしいとの要請がありました。 私は無学歴・無資格 (Academic Outsider)で学問とは無縁の存在ですので、知識階級・中産階級にしか理解できない難解な論文など書く術はもちあわせていません。
日本語で『部落学』を執筆を開始するのは、English Writingで『My Practice of Writing in English』・『Historical Truth of Discriminated Burakumin』・『A Pastor's Encounter with Burakumin』を執筆したあと・・・。 75歳の後期高齢期に入ってからの挑戦なので時間をかけて熟成したものを提示します。
夜書庫から部落問題資料を取り出す・・・
夜書庫から部落問題に関する昔の詩料を取り出しました。 日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしているとき、2005年にブログ『部落学序説』を公開で執筆しましたが、そのあと、インターネットの日本の古本屋経由で集めた部落問題関連資料の一部です。
1. 『特殊部落研究』 (1919)
2. 『特殊部落の解放』 (1921)
3. 『融和問題論叢』 (1929)
4. 『融和運動論叢』 (1913-1936)
5. 『同和問題の歴史的研究』 (1943)
6. 『阿波の民衆史 同和教育資料』 (1974)
7. 『水平』(雑誌 1922~)
8. 『水平運動論叢』 (1971)
9. 『部落問題文芸作品解題』 (1972)
10. 『前田三遊論集』 (1969)
11. 『社会外の社会穢多非人』
12. 『特殊部落一千年史』
ブログ『部落学序説』を執筆するときに引用したのは『社会外の社会穢多非人』と『特殊部落一千年史』の2冊のみ・・・。 『部落学』を執筆するときは他のすべてから引用することになります。 <賤民史観>の支持者である学者・研究者・教育者・運動家からは批難され、誹謗中傷・罵詈雑言をなげかけられることになるでしょうが、被差別部落の先祖を<賤民>と烙印し差別の鉄鎖に拘束する差別思想<賤民史観>を取り除かない限り、日本の社会から部落差別はなくならないでしょう。 部落差別完全解消を願う日本基督教団の一隠退牧師である私は、左翼主義思想の学者・研究者・教育者・運動家に内在する差別思想を明らかにせざるを得ないでしょう。
部落史研究の入門書・・・
私の蔵書のなかの部落史研究の入門書は極ありふれたものばかり・・・。
1. 『部落史研究ハンドブック』
2. 『部落史研究文献目録』
3. 『防長風土注進案・研究要覧』
4. 『部落史用語辞典』
5. 『部落問題事典』
6. 『新修部落問題事典』
7. 『藩制一覧』
8. 『差別の諸相』(岩波近代思想大系)
9. 『部落差別史研究』
2005年にブログ『部落学序説』を公開で執筆をはじめたとき<読者>から寄せられた批判と同じ批判が『部落学』を執筆するときにも寄せられる可能性が大きい・・・。
なにしろ私は無学歴・無資格(Academic Outsider)で部落史研究の門外漢 であり、ブログ『部落学序説』を誹謗中傷・罵詈雑言でもって批判してこられた学歴・資格を持った学者・研究者・教育者のように大学で歴史研究の基礎的訓練を受けたことはありません。 すべては<独学>・・・。 できる限り部落史研究という狭い視野に偏ることがないように、一般の歴史研究法、辞典・事典類、史資料、論文集を集めて読んできました。 岡山の部落史研究の学者・研究者・教育者・運動家からどんなに馬鹿にされても無い袖(学歴に基づく知識・技術)は振れませんから、『部落学』執筆の旅へ、<I am on my way. >・・・。
熱中症は脳の機能に異変をもたらす・・・?
朝5:30~7:00段々畑の電気柵の電線の下の草刈りをしていたとき、呼吸困難や気分が悪くなり、めまいがしたり頭がほてったりして熱中症の症状が出てきました。
段々畑の気温・湿度が高かったのでしょうね。
今日は一日頭のなかがさえないときが続いていましたが、午後6:00頃には居間の座卓の上の温度計は温度27.6°C、湿度74%になり、少しく気温・湿度が下がってきましたが、それでも蒸し暑い・・・。 我が家は、他の農家と違ってオール電化ではないのでクーラーは設置していません。 使っているのは昭和の時代の扇風機のみ・・・。 扇風機の風があたるところで、温度27.6°C、湿度74%ですから、扇風機のない場合、やはり室内にいて熱中症になりかねないようです。
明日、草刈りの続きをしますが、どうなることやら・・・。
American English Dictionaryを読むようになって頭が活性化・・・
75歳になってAmerican English Dictionaryを集めましたが、American English Dictionaryを読むようになって私の頭は再度活性化しはじめたようです。
最近のAmerican English Dictionaryは、昔ながらの辞書に、1.同義語・類義語・反対語、2.コロケーション、3.用例、4.文法的説明、5.語源、 6.図・表が付加された<総合辞典>が多く、読むだけでその単語についていろいろな情報を手に入れることができます。 知らない未知の単語は、その定義と用例を読めば、日本語のどの言葉に該当するのか簡単に想定することができます。 ペーパーの辞書、電子手帳の辞書、パソコンにインストールした辞書は、それなりの使い方があり必要に応じて使い分ければ有効利用することができます。
GoogleのBloggerは、どの場所からアクセスされたか、世界地図・日本地図・都道府県地図の上で表示してくれますので、『My Practice of Writing in English』、『Historical Truth of Discriminated Burakumin』、『A Pastor's Encounter with Burakumin』で英語で文章を書き始めれば、日本語の枠を超えて読みに来てくださる方々の国と都市を知ることができます。 無学歴・無資格 (Academic Outsider) の私のEnglish Writingも単なる独白で終わらず、反応を目で見て確認することができるようです。
内務省警保局『徳川時代警察沿革誌』を書庫から取り出して・・・
インターネットの日本の古本屋経由で入手した内務省警保局『徳川時代警察沿革誌』を書庫から取り出して読んでいますと、妻が、<あなたなに読んでるの、とても古い本みたい。 昭和貳年参月発行て書いてあるわ・・・。 私の母が生まれた年に出版された本なの? 95~6年も経っているのだから、古いはずよね・・・>と話しかけてきました。
内務省警保局『徳川時代警察沿革誌』は上下2巻・・・。 江戸時代の司法・警察の本体である全国津々浦々の<穢多>役・<非人>役の職務の多さとその内容を知るための有用な資料集です。30の分野に分けられていますが、そのひとつに警察内部の不祥事に対する取り締まりの項目もあります。 差別思想<賤民史観>の学者・研究者・教育者・運動家は、不祥事・犯罪によってお仕置きを受けた<穢多>役・<非人>役も権力によって差別され疎外された存在だと主張 (有名な話では中国街道筋の穢多など) しますが、もし、現代の警察官がその職務規定に違反して犯罪をするようなことがあれば、彼らはそれも権力による差別だと受け止めることになるのでしょうか。 <あらゆる犯罪は革命的である>とする左翼主義思想の立場からすると犯罪を犯した警察官は彼らの同士として擁護・共闘・解放の対象になるのでしょうか・・・。
今、居間の座卓の上の温度計は気温28・9°C、湿度69%・・・。 郵便受けを見に玄関に出たときは熱風が吹いていました。 ひとつのことに集中できないのは、あつさのせいでしょうね、きっと・・・。
以下は、インターネットで検索した内務省警保局『徳川時代警察沿革誌』を編集せしめた人の言葉です。
<徳川時代の記録を曽て取調べたことがありますが、徳川氏時代に於ては警察は誠に能く行き届いて、其布置按排の宜しきを得て居ることは、殆ど意外に出でて居るようなことも往々にあります。 (中略) 曽て私は属僚に命じ解く鵜川時代の警察に関する所の諸掟を編纂せしめて、殆ど五十巻程拵へてみましたが、これについてみれば今日の警察事項と名称こそ違つてゐますが、其実際に至つては殆ど同じもので政治警察もあれ安寧警察もあり、其他風俗、宗教、祭儀、出版等々あらゆる取締規定があります。> (清浦氏談)
『近世宿駅制の研究ー奥州街道郡山宿を中心として』・・・
郡山地方史研究会の古文書講習会のテキストにされた古文書は、大半が奥州街道郡山宿に関するもの・・・。 日本基督教団の隠退牧師になり妻の故郷・湖南の赤津村に帰郷・帰農したのは2013年ですが次の年から郡山地方史研究会の古文書講習会に参加させてもらいました。 そのとき、当該年度のテキストだけでなくテキストのバックナンバーもできる限りたくさん集めました。 1冊1,000円で販売されていましたので・・・。
その奥州街道郡山宿関連の古文書の中には、当時の司法警察官である<検断>・<穢多>・<番太>などに関する記述も少なくありません。 中には彼らの探偵・捜査法に関する古文書もあります。 当時の街道を安全に守るためには<警察>による取り締まりが必要です。 その権限、殺生与奪の権を持っていた人々の中に<穢多>がいます。 二本松藩にあっては、城下に入る街道の東・西・南・北に<穢多村>が配置されていました。 その<穢多村>の役目は城下の治安を守るためなので、常に城下の町はずれの街道沿いに置かれていました。
城下の町が発展して人口が増加しますと、<穢多村>はさらに城下の町はずれに移されました。 差別思想<賤民史観>の学者・研究者・教育者・運動家は、それをもって<穢多>は封建時代にあって差別・排除されていたと説きますが、大きな事実誤認です。 関所は町外れにあってはじめて関所としての役割を果たすのであって城下の町のどまんかなにあっては関所の役を果たすことはできません。 城下町の中にあっては<穢多>の部類の<目明し>が取り締まっていました。
熱中症になりかけて気力喪失・・・
児玉幸多著『近世宿駅制の研究』を取り出してページをめくっていました。 副題に<中山道追分宿を中心として>が掲げられていますが、追分は小諸城下まで1日の旅路・・・。 この街道は、私の高祖父がよく通った道で、追分の東にある高崎の寺で尺八の修行をしてその免状をとったことがある街道です。 『観聖寺文書』の中に出てきます。
児玉幸多は、長野県更級郡出身・・・。 なぜ『近世宿駅制の研究』を書くことになったのか、その序文で、<なお私事にわたることではあるが、私の母は、信州の脇街道の一つである北国西街道の一宿駅の稲荷山宿の問屋本陣の家に生まれたもので、母から聞いていた伝え語りが、私をこの研究に数年間没頭させるのに何らかの影響があったように思い、また宿場のことを理解するのに役立ったと思う。 >と綴っていました。
先祖の歴史と伝承は、なんらかのかたちで子孫に受け継がれ、その人生をどう生きるかについて大きく影響しているものと思われます。
私の祖父・吉田向學は修験僧を隠退したときの通称ですが、明治最初の戸籍には修験僧の名前が記載されています。 長野市や長野県の史資料の中に関連資料が含まれています。 先祖の生き方が子孫の私にも大きく影響しているようです。
修験者は、街道の宿にとまることはできませんでした。 しかし、法令上禁止されて困るのは、偽修験者だけです。 ほんとうの修験者は、彼らが属する宗派の寺院を宿として使用していたからです。 観聖寺の住職の場合、真言宗当山派の寺院によって江戸の総触頭・鳳閣寺に所用で出向く場合、各地の真言宗当山派の寺院に寝泊まりしていました。 ある本に、番所で一泊した修験者の話が出ていましたが、その修験者はほんものの修験者ではなく修験者に扮した密偵の<穢多>・・・。
児玉幸多著『近世宿駅制の研究』には、街道を警備していた<穢多> (長吏) に関するまとまった記述はありません。 この児玉幸多著『近世宿駅制の研究』は、インターネットの日本の古本屋経由で入手した国立金沢大学付属図書館の廃棄本です。
一時治まったかのようにみえた熱中症の症状が続く・・・
一時治まったかのようにみえた熱中症の症状が続いています。
家に戻ってしばらくしますと雨が降りはじめましたので、草を刈っている間に温度・湿度共に上昇したのでしょう。 気象環境の悪化と共に、電気柵の支柱の周りの草を手でとるために草刈り機を持ったまま腰を落とし草を取るとまた立ち上がる動作を繰り返していたため思った以上に<加重労働>になったのでしょう。
熱中症は昼だけでなく夜にも発生すると報道されていますが、朝4:00に起床して5:30から作業をはじめたにもかかわらず熱中症になりかけるとは・・・。
テレビの天気予報では、福島県は7日間連続で熱中症警戒アラートが発動されているようです。 外出は避けてクーラーのついた部屋にいるようにと熱中症対策の方法も表示されていますが、棚田や段々畑で農作業をするのはもってのほかなのでしょう。
居間の座卓の下に、『原田伴彦著作集』 (8冊) ・『原田伴彦論集』 (5冊) と 師岡佑行著『戦後部落解放論争史』 (4冊) を置いて暇を見つけては目を通すことにしました。 師岡佑行著『戦後部落解放論争史』だけを読んでいると気分が滅入るので原田伴彦の著作も並行して読むことにしました。 原田伴彦は、思想・イデオロギーに距離をとって科学的・学問的に歴史を研究したひとであるようです。 『原田伴彦著作集』 (8冊) ・『原田伴彦論集』 (5冊) は思想用語・イデオロギー用語をほとんど使わないで論述されていますので無学歴・無資格 (Academic Outsider) の私でも読みやすい。
書庫から師岡佑行著『戦後部落解放論争史』を取り出して・・・
熱中症の症状がなくなったあと、書庫から師岡佑行著『戦後部落解放論争史』を取り出しました。
インターネットの日本の古本屋経由で入手したあとまだ一度も読んでいませんが、ブログ『部落学序説』をさらに深化させた『部落学』を執筆するためには、避けて通ることができない本です。
私は高校生のときに600冊の本を読みましたが、その読書を通じて<思想>ではなく<哲学>で生きて行くことに決めました。日本のキリスト教界を席捲していた<社会主義思想と実存主義哲学>の論争とは無縁のところで、誰かが決めた<思想>で自分自身のことばとふるまいを規定して追従していくことに疑問を感じ、すべて自己の責任のもとに<哲学>しつつ生きることを選択しました。
中学校3年生のとき、私が尊敬してあのような教師になりたいと思っていた中学校教師が、完全犯罪を企んで公金横領事件を起し警察に逮捕されるという出来事がありました。 そのときの精神的ショックが大きく、人間とはなにか、人間はなぜ罪を犯すのか、教師になるとはどいうことを意味するのか、教師は信頼するに足りうるのか、お前は罪を犯すことはないのか、中学校教師になったとして教師としての本文をまっとうすることができるのか・・・、いろいろな難問の解決を求めて600冊の読書をすることにりました。 その結論が、<思想>ではなく<哲学>することを選択、『聖書』の人間観に従って生きることでした。
師岡佑行著『戦後部落解放論争史』は部落史研究の<哲学>ではなく<思想>の書・・・。 非政治的・非思想的な私がこの本がどれだけ理解できるかどうか分かりませんが、左翼主義思想の部落解放理論をより詳細に学ぶことはできるでしょう。 もちろん、『部落学序説』の視点・視角・視座からの批判検証以外のなにものでもありません。 戦後の部落解放論争(ソ連と中国の共産主義の影響)の背後には極めて差別的な<愚民論>がありますが、その<愚民論>を知る上でも貴重な本です。 <愚民論>を基盤にして差別思想<賤民史観>が構築されていきます。 <愚民論>と<賤民史観>は日本の知識階級・中産階級に通底した差別思想です。 差別思想に乗っかった部落解放運動は差別の拡大再生産に資することはあれ、決して部落差別完全解消にはつながらないのです。
朝、熱中症の症状が出る・・・
昨日夕方、妻が段々畑の草取りにでかけたとき防獣対策用の電気柵の電池が切れていることがわかったとかで、今朝、妻と一緒に段々畑に行って梅の木のある段々畑の畑2枚の電気柵の下の草刈りをしました。
朝5:30~7:00・・・。 妻が段々畑、常夏川沿いの畑、棚田の田畑転換した畑、苗代田の簡易温室で夏野菜の収穫をしている間、私は草刈り機で電気柵の下の草刈りをしました。 妻が収穫を終えて段々畑に戻ってきたとき、私は呼吸困難になり、胸が悪く、めまいがしてあたまが火照ってきました。 <もしかしたら熱中症になったのでは・・・? >と思って妻と一緒に家に戻り、冷たい水を飲み、頭を水道の水で冷やしました。 それでなんとか熱中症の症状がなくなりました。
気温は28°C、湿度75%・・・。 しかも風がなく、蒸し暑さのなか、電気柵の支柱の付近はかがんで手で草をとったり、とったあと立ち上がって草刈り機でまた電線の下の草を刈る作業を繰り返していたので、立ちくらみが発生したのかもしれません。 日中だけでなく朝の農作業でも熱中症になる可能性があることをあらためて経験させられました。
とりあえず、電気柵の電線の下1m幅で草を刈り取ることができ、電気柵本体の電池を新しい電池に交換して帰ってきました。 昨日、9月20日までにすべての耕作地と土手・畦・周辺の農道の草刈りをすませるようにとの文書による通達がありました。
2023/08/22
人生の晩年に登らなければならない峰の頂が見えはじめた・・・
私は75歳・・・。
後期高齢者の仲間入りをしているのですが、人生の晩年において、日本基督教団の隠退牧師として登らなければならない峰の頂が見えはじめました。
その峰の頂とは、日本の部落差別完全解消のための提言、『部落学序説』に続く『部落学』を執筆すること・・・。 今は6合目にいると推定しましょう。 これから7合目、8合目、9合目と登りつめ、最後は峰の頂にいたるように展望を持ちながら、着実にその執筆の登山を続けていくことになります。
ひとの人生は、自分の意思で自由になるものではありません。 すべての人生は神から貸し与えられたもの、いつその人生を神さまのみ手に返すかは、神さまのみが判断されること・・・。 ひとはただいつくるかわらかないその日を自覚しつつ、生かされている今を最善を尽くして生きることになります。 若いときも、歳をとってからも、人の生き方は同じです。
古書の入手は不可能な季節に・・・
2013年4月1日に、日本基督教団の隠退牧師になり、妻のふるさと・湖南の赤津村に帰郷・帰農して以来、インターネットの日本の古本屋、BOOKOFF ONLINE、Amazon経由で入手した古本・古書は約1,000冊・・・。
同じものは無条件に一番安価なものを入手しました。 安価でしかも保管状態のいい古本・古書は、国立大学付属図書館の廃棄本・・・。 私の蔵書の場合、国立金沢大学の移転・統合に際して付属図書館が整理され、重複した大量の書籍が廃棄本として古書店に売却されました。 私のインターネットの日本の古本屋経由で入手した廃棄本の中で一番多いのはこの金沢大学付属図書館の廃棄本です。
高校生のとき一期校として金沢大学、二期校として信州大学を検討したことがありますが、それは、私の祖父・吉田永學、曾祖父・吉田向學が信州・長野の人であったため・・・。 父が吉田家を再興しろといいながら吉田家の先祖の歴史については何も語ろうとしなかったため、先祖の歴史に興味を持ったからです。
曾祖父・吉田向學は、1637年(寛永14)に開山された、伊勢神宮の神宮寺・世義寺の信州栗田村の末寺、真言宗当山派徳音山観聖寺の長男系列世襲の修験僧の末裔であったようです。 その姿は剃髪して黒袈裟を身に着けたまるっきりの僧侶の姿・・・。 観聖寺は、信州栗田村の太子堂でもあり、大工などの職人の信仰を集めていたようです。 江戸の大工になるには12歳のときに弟子入りをするのが普通でしたが、12歳に弟子入りした人は親方に連れられて、12歳の聖徳太子像が祭られている観聖寺まで旅をしたようです。 聖徳太子のご利益にあずかり、生涯大工としてその職務をまっとうできるように・・・。 それを知ったのは、日本基督教団の隠退牧師になる直前・・・。
もし金沢大学か信州大学に進学していたとしたら、その図書館で読むことになったと思われる本を集めることになりましたが、物価高騰が常態化、ますます物価が上昇しても下降することはなさそうなので、私の蔵書を増やすこころみも、今年Amazonで English Writingのための英語辞書を多数集めたのが最後になります。
物価高騰で、妻と私の年金暮らし&百姓暮らしは制限の多い生活と暮らしをもたらすことになるでしょうから・・・。
年金暮らしの見通しの甘さ・・・
年金暮らしの見通しの甘さ・・・
日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたとき、60歳になり年金の一部が入るようになり徳山社会保険事務所の相談窓口で将来の年金額について教えていただきました。
そのとき、今から15年前、新鮮な魚介類を安価に食べることができた山口から、奥羽山脈のふところに抱かれた海から遠い妻のふるさと・湖南に移住して年金暮らしをするようになると美味しい魚介類を食べれなくなるという妻の話で、大島の海の道の駅で鮮魚を買って鮮魚の<食べ納め>をしました。 福島に戻ってからは鮮魚ではなく魚介類の缶詰を食べることにしました。 そのころの魚介類の缶詰は、サンマもアサリも1缶98円・・・。 そのつもりで老後の暮らしの設計をしていた妻と私ですが、今サンマは1缶340円、アサリは380円、好きなように食べることができなくなってしまいました。
2013年4月1日に日本基督教団の隠退牧師になり、妻の故郷湖南に帰郷・帰農してから今年で11年目、缶詰は1個30~50%の値上がり・・・。 年金額は介護保険などの天引きで減額されていくのに物価は逆に上がりぱなし・・・。 物価指数ほどあてにならないものはなさそうです。
妻は有機・無農薬で栽培した野菜を直売所・湖南四季の里に出展していますが、湖南のリタイアしたおじいさん・おばあさんは少しく価格をあげると買わないのだとか・・・。 それで妻は、そのおじいさん・おばあさんが買うことができるまで値下げするのが常・・・。 昨日、四季の里でそのおばあさんのひとりに言われたそうです。 <A子さんは大変なことをされているんですね。 有機・無農薬で野菜をつくるなんて・・・。 A子さんのつくったキュウリは新鮮なのにやわらかくて、甘くて、昔の味がして美味しいわ・・・>といわれたとかで、妻はとても喜んでいました。
最近いろいろ考えさせられることが多い、かっての<年金暮らしの見通しの甘さ>です・・・。
猪苗代へ買い物に・・・
猪苗代へ買い物にでかけました。
食料品と日用品を購入するためですが、すべての商品がかなり値上がりしているようです。 いつも買っているプレーンヨーグルトはかなり高くなっていますので、<生きて腸まで届く>というほかのメーカーのプレーンヨーグルトに変えてみることにしました。 4個で540円の差があります。
ほかの食品もいつも購入しているものを見直すことにしました。 国産を選択することに変更はありませんが、すべての食料品と日用品の品定めをやり直すことにしました。 猪苗代にはホームセンターが3軒、ドラッグストアが3軒、スーパーが2軒ありますが、食料品と日用品は価格の混戦模様・・・。 とりあえず1年前の実勢価格の50%を超える商品は購入しないことにきめました。 しかし実際は20%アップの商品も購入を断念することが少なくありません。
高齢者の年金暮らしは、ますます大変になりそうです。
リアルタイムでアクセス情報を見ることができる・・・
GoogleのBlogger上のアクセス情報、リアルタイムで視覚的にみることができるようになったようです。
左の地図の●印は、京都と福島からアクセスされていることを示しているようです。 日本国内からのアクセスだけでなく外国からのアクセスも図示されるようです。
ただ、私のブログ、『隠退牧師の百姓日記』・『ある部落差別問題に関するレポート』・『部落学序説 (データベース) 』・『My Practice of Writing in English』・『Historical Truth of Discriminated Burakumin』・『A Pastor's Encounter with Burakumin』は一日の読者数が1桁ですので、リアルタイムでどこからアクセスされているのか視覚的に確認できるのは単なる偶然に過ぎません。
今日は風がある・・・
今日も福島県内は猛暑日になりそうです。
朝のテレビの天気予報では、福島県は山口県より気温が高くなりそう・・・。 この夏は、福島県の気温が山口県の気温より高い日が多い・・・。
ただ、妻の実家のある湖南町赤津村は標高530m、奥羽山脈のふところに抱かれた湖南高原にありますので昼夜の寒暖の差が大きく、夜、暑くて寝苦しくなることはほとんどありません。 しかし、今年の夏は、夜気温が下がるのが緩慢でいつもの年より蒸し暑い・・・。 風がないのが原因であるようですが、今朝はめずらしく風が吹いています。
風があるかないかは、今のサッシを通して見る庭の木々や観音堂の南側の旗振り山の雑木の揺れを見れば分かります。 気温が高くても風があればヒートインデックスが下がりますので過ごしやすくなります。 棚田の田で田の草をとるのも苦にはなりませんが、無風状態ですと湿度が95%を超え耐えがたい天気になります。
山口に棲息していたとき夏の日中の草取りは厳禁でしたが、それから11年、福島の地でも同じ暑さが襲来しているようです。 湖南の赤津村のプロの農家は、<なんだ? もうバテてんのけ? ここらのもんでねえもんはろくでなしだなあ、からだできてねえんだべえ! >からかいの言葉をなげかけてくるのが常ですが、いまだにコメを自分で栽培しているのは集落11軒のうち妻の実家を含む2軒だけ・・・。 からだができているプロの農家はコメつくりをやめて久しい。 しかし、湖南農協にあっては、彼らは農家であっても、妻と私は田畑5.0反以上という農家になる条件をクリアしていないので非農家・・・。 <ここらで農家でねえのはおめえらだけだ! >
<農家>は<一般用語>ではなく<行政用語>・・・。 純然たる農村的地域社会の福島県郡山市湖南町にあっては田畑5.0反未満の農地しかもっていない人は<農家>・<農業>ではなく<趣味の園芸>をしている<無職>に数えられます。 もちろん、一切の、<農家>・<農業>、原発事故による損害賠償などの各種補助金・賠償金の対象外・・・。
昨夜、原田伴彦の論文を整理・・・
今日はテレビの天気予報では福島県は36~38°Cの猛暑日・・・。
今朝の居間の座卓の上の温度計は温度25.7°C、湿度73%と少しく涼しさを感じられ、季節が夏から秋に替わりつつあるのを感じさせられました。
昨夜、原田伴彦の論文の整理をしていました。
ブログで『部落学序説』を公開で書きおろしをはじめたとき、私が読んだことがある原田伴彦の論文は、<部落史の標準的な通史>と言われ、部落差別に関する書籍を閲覧禁止にしていた地方の公立図書館でもこの『被差別部落の歴史』(1973年)だけは閲覧することができ、書店で購入することもできました。
それ以外の原田伴彦の論文を読む機会はあたえられませんでしたが、2013年4月1日に日本基督教団の隠退牧師になり妻のふるさと・湖南の赤津村に帰郷・帰農する5年前に、京都大学大学院を出た日本文化史研究者の方から、<これまで部落史を研究してきた学者・研究者・教育者が一斉に関連書籍を古書店に売却してその古書価格が下がっている。 部落史研究の基本的な文献も安価に入手できるから、これからも『部落学序説』の執筆をつづけるつもりなら、今、入手した方がいい>とアドバイスしてくださいました。
それで、インターネットの日本の古本屋経由で関連書籍を入手したことをその日本文化史研究者の方に伝えると、その人は、雑誌『部落』の復刻版と浄土真宗の<穢寺>関連の史資料、山口県下松市教育長が蔵書していた同和教育・同和事業関連史資料を多数送ってくださいました。 インターネットの日本の古本屋経由で集めた部落史関連史資料や論文集・研究書、日本文化史研究者の方から提供のあった関連史資料や文献をまだ『部落学序説』とその関連ブログ群には反映していません。
<原田伴彦>の諸論文を批判検証をしてその背後にある原田伴彦の被差別部落や部落差別に関する<前理解>を解明しようとしますと、部落史の学者・研究者・教育者・運動家から単なる批判にとどまらず、これまでもそうであったように彼らから誹謗中傷・罵詈雑言、インターネット上でストーカーの災禍に遭遇することになるでしょう。
しかし、原田伴彦 (1917-1983) は、日本の学者・研究者・教育者・運動家にみられるような<本音と建て前>を使い分けることがなく、誠実に部落史の科学的<実証的研究>に徹したひと・・・。 <人間の本質的平等と自由>(聖書的人間観に通じる)を追求し、<学歴にこだわらず、権威主義にとらわれず>、<偏狭さとセクト主義に無縁・・・是々非々明白な、判断を持ちながらも、その人々の水準に合わせて話のできる人であった>(<>内の言葉は村越末男評) そうですから、無学歴・無資格 (Academic Outsider) の日本基督教団の一隠退牧師の批判検証に激怒されることはないでしょう。
2023/08/21
旧長州藩領地にあっては人間関係に恵まれ、旧会津藩領地にあっては人間関係の貧困に直面・・・
日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていた30年間、いろいろ人間関係に恵まれていたようです。
2013年4月1日、日本基督教団の隠退牧師になって、妻のふるさと、福島県郡山市湖南町赤津村の旧会津藩領地に棲息するようになって11年目、振り返ってみますと、旧長州藩領地に棲息していたときと違って、旧会津藩領地での日々はなんと人間関係が貧困なことか・・・。
<ここらのもん>の<よそもん>に対する排除・疎外にさらされて久しくなりますが、記憶に残る人間関係はほとんどありません。 旧長州藩領地の農家の方々は、見ず知らずのたまたま訪ねて行った先で、<そうか、奥さんの田舎は会津か。 それじゃあ、ほんとうのことを教えなければいけねえな。 会津農家に、長州の農家が嘘を教えたと思われると長州農家の恥だからなあ! なんでも聞いてくれ。 ほんとうのことを教えてあげるから! >と棚田のコメ作りや段々畑での野菜つくり、ブドウなどの果樹、菊の電照栽培などの栽培方法を教えてくださいました。
それに引きかえ、旧会津藩領地の妻のふるさと・湖南の赤津村の農家は、<ここらのもんは、よそもんのおめえらにコメつくりは教えねえことになってんだ>と語りかけてきました。 妻と私は、<教えていただかなくてもけっこうです。 素人百姓には素人百姓の作り方がありますから・・・>といって、ここらのもんの農家から教えを乞うことはありませんでした。 <教えてほしかったら土下座しろ。 土下座したら教えてやらねえこともねえ>とか、人間関係破壊型の対応がほとんどでした。
旧長州藩領地での人間関係の豊かさの反動が、この11年間の旧会津藩領地で起きているのでしょう。 山口にいるとき牧師の副業として山口県立田布施農業高校大島分校に3年間勤務したことがありますが、そのとき農業高校の教師の方々や同校嘱託の教師の方々から寒冷地・高冷地における有機・無農薬栽培の方法を教えていいただきました。 それを最大限に有効利用して実践していいるのは私よりも妻の方・・・。 妻は妻がどのようにして有機・無農薬で栽培しているのか、他言することはないようです。 妻の口癖は、<なんで採れたんでしょうね、私にもわかりません。 たまたま偶然にできたみたいです。 今年できても来年同じようにできるかどうか・・・>。 そういいながら、有機・無農薬栽培による米つくり・野菜つくりをはじめて11年目・・・。 野菜直売所・湖南四季の里で<からだにやさしい農薬未使用野菜>とのラベルをはった妻の野菜を名指しで買ってくださるお客さんも徐々に増え、妻は笑顔に包まれています。
農家: あなたがつくっているトマトの品種はなにですか?
妻: トマトはトマトだけれど、どこのホームセンターでも売っているトマトです。
農家: 苗でかってるんですか?
妻: いいえ、種から育てています。
農家: 農協で指定されている品種ですか?
妻: いいえ、農協で指定されている品種はなにも栽培していません。
農家: ほんとうに無農薬栽培なんですか?
妻: そうです。 夫が農薬アレルギーがあるので農薬は一切つかいません。
農家: それなのに害虫被害がないのですか?
妻: ここらの害虫はよそもんの百姓が嫌いみたいで、近寄ってこないんですよ。
午前中整理できたのは新書判だけ・・・
午前中、書庫の整理をはじめました。 English Writingに必要な本をすぐ閲覧できるようにするためです。 新書判の中から100冊を取り出して書棚に列べました。
日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしているとき、その30年間謝儀は西中国教区の謝儀基準の初任給以下・・・。 そのため清貧生活・清貧暮らしを余儀なくされましたから、単行本は月1冊・・・。 その他は岩波新書と岩波文庫を必要に応じて購入するだけ・・・。 岩波新書で現代を知り、岩波文庫で古代・中世・近世を知ることになりましたが読書分野は広範に及びいわゆる<雑学>の世界・・・。 単行本は、東京大学を出られて下関書店を経営さている方の巡回販売で、読書指導・解説つきで購入しました。『岩波近代思想大系』や被差別部落史関連論文集など・・・。 その東京大学卒の下関書店の店長さん、無学歴・無資格 (Academic Outsider) の一牧師である私に歴史研究のてほどきをしてくださいました。 非政治的な存在である私に<思想>ではなく<学問>のあり方、研究方法を教えてくだしました。
そのときその方から読書することをすすめられた本はすべて今も私の寝室に置いています。 『部落学序説』を執筆するときの座右の書でしたし、 English Writingで『Historical Truth of Discriminated Burakumin』を執筆するときの座右の書でもあります。
岩波新書と岩波文庫、『岩波近代思想大系』、それから牧師になる前にすでに入手して読んでいた『岩波日本思想大系』は、『聖書』と共に私の精神形成に大きく影響を与えた本です。
部落解放センター40年ー人とその歩み・・・
今日、『良き日のために 日本基督教団部落解放センター通信』(部落解放センター通信30号)が郵送されてきました。
最初のページに小柳伸顕著<部落解放センター40年ー人とその歩み>という文章が掲載されていました。 どうやら、日本基督教団の部落解放センターとその担い手たちは世代交代がすすんでいるようです。
通信30号に掲載された部落差別問題と取り組んだ牧師の中に東岡山治牧師と角樋平一牧師のことが紹介されていました。 2人の牧師の名前は、私にとって忘れがた名前です。 私のブログに何度も登場してきますが、たとえば、今年3月2日に書いた以下の文章の名前を実名で掲載すれば、
2023/03/02
<うそでもいいから・・・>
日本基督教団西中国教区の山口のちいさな教会の牧師をしていたとき、教区総会で、筆者、4期8年、西中国教区部落差別問題特別委員会委員をさせられていました。その委員長の宗像基牧師からは、<山口の地で、部落差別問題にかかわるように・・・>と制限されていました。西中国教区が、広島の被差別部落の中で設置している私設隣保館には関与しないようにと。
<石の上にも3年>ということわざがありますが、8年も、部落差別問題にかかわっていれば、山口の被差別部落やそのひとびととの接点も交流もできるようになります。とくに、教会員の半数が被差別部落出身者とその関係者である、筆者が伝道・牧会している教会ならばなおさらのこと・・・。
あるとき、日本基督教団部落差別問題特別委員会委員長の東岡山治牧師から、<吉田くん、うそでもいいから、部落民宣言して、一緒に部落解放運動をやらないか>と勧誘されたことがあります。そのときには、筆者は、被差別部落の先祖といわれていた<穢多>役、<非人>役は、近世幕藩体制下の司法・警察であると、長州藩の史資料から推察していましたので、その末裔でもないのに、自分の先祖を、<穢多>役、<非人>役とするのは、歴史の改竄であり、<うそでもいいから、部落民宣言>するということは、部落民であることを詐称することになり、聖書の信仰に照らしても間違いであると思って、東岡山治牧師に、<部落差別問題に取り組んでいる牧師は、部落民でないのに部落民を騙っているのですか?>と問いかけましたが、返事はありませんでした。それからまもなく、日本基督教団部落解放センターの主事の角樋平一牧師から電話があり、<他の牧師には、部落差別問題に取り組めというが、吉田牧師にだけは言わない。即刻、部落差別問題と取り組むことをやめろ! やめないというなら、日本基督教団の取り組みとは無関係の世界でやれ!>と一喝され、結局、筆者は、日本基督教団の部落差別問題との取り組みや西中国教区の部落差別問題との取り組みとは別の次元で、筆者なりの部落差別問題と取り組むことになりました。3年間、山口県立高校7~8校で、情報教育アドバイザーをしているときに、同和教育担当の高校教師と同和教育について情報交換し、その過程で、ブログ『部落学序説』の構想をねっていき、最後は、その執筆計画書を配布して、いろいろアドバイスを受けました。
<吉田くん、うそでもいいから、部落民宣言して、一緒に部落解放運動をやらないか>と筆者に語りかけてきた東岡山治牧師とは、それ以来、疎遠になってしまいましたが、彼は、<西中国教区の牧師たちは、吉田くんを部落差別問題の取り組みから排除するなら、わたしの活動を支えてもいいと言ってくれた。それで、吉田くんを排除することにした・・・>と筆者に引導を渡してきました。その後、筆者は、山口で知り合った、未指定地区の、被差別部落の古老や、近世幕藩体制下で<穢>寺と言われていた浄土真宗の住職の方々に対する聞き取り、山口県立文書館や山口県立図書館の研究員の方々の論文、徳山市立中央図書館郷土資料室の蔵書から、筆者独自の視点・視角・視座から、被差別部落史と部落差別完全解消への提言をまとめることにしました。それが、ブログ『部落学序説』です。筆者のブログ『部落学序説』は、日本基督教団の部落解放センターや西中国教区部落差別問題特別委員会とは、直接関係はありません。
彼らの目からみると、吉田向学は<造反者>でしかありません。今も、なお・・・。
日本基督教団部落解放センター主事の角樋平一牧師や東岡山治牧師から、私が切り捨てられ排除・疎外されたのは私が部落差別をしたからではありません。 彼らの運動方針と異なる視点・視角・視座から部落差別完全解消の提言をはじめたからです。 被差別部落の先祖を<賤民>であったと貶め、被差別部落の人々を差別思想<賤民史観>という<差別の鉄鎖>に拘束し続ける日本基督教団の部落差別問題との取り組みの姿勢を批判しはじめたからです。 日本基督教団部落解放センターはなんで切り捨てた私のところに<部落解放センター通信>を送ってくるのでしょうかね・・・。 資源の無駄使いです。
被差別部落探訪は必要なし・・・
本田豊氏の東日本の被差別部落探訪の本を読みながら、ブログ『部落学序説』の筆者である私には<あらたな被差別部落探訪の必要はなし>と思いました。
日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていた30年間に、無学歴・無資格 (academic Outsider)の私が許された被差別部落探訪の件数は数少ないのですが、質的には本田豊氏の被差別部落探訪のそれと遜色ありません。
近世幕藩体制下の<穢多>役・<非人>役は<非常の民>である司法・警察官であったとする<非常民論>の立場に立てば、幕府の治安維持の方針のもとに構築された日本全国の街道を警備、安全を確保するために設置された<交通警察>はすべての諸藩で共通した性格を持っていますので不思議なことではありません。
藩法を超えた幕府法があったため、ひとつの街道を旅するのに諸藩を貫いて安心して旅を続けることができたのでしょう。 もし、<交通警察>である<穢多>役・<非人>役が順守しなければならない法が藩毎に異なるものであったとした、A藩で問題にされなかったこと(たとえば衣類の材質と色)が次のB藩で問題にされ、法律違反として逮捕・監禁・お仕置きないし過料を科せられ、道中の日程と費用の支障になり旅そのものが困難になります。 幕府は、日本全国同じ法のもとで街道を警備、治安を維持するために<穢多>役・<非人>役を配置しました。 そういう意味では、旧長州藩の領域だけでなく、日本全国津々浦々の<穢多>役・<非人>役は同じ役目を担っていたと思われますので、吉田向学著『部落学序説』でとりあげる西日本の長州藩の事例は、本田豊氏の著作でとりあげられる東日本の事例に共通したものであると言えます。
日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていた30年間、旧長州藩領地の
<穢多>役・<非人>役の末裔である被差別部落の方々との出会いと貴重な聞き取りをすることができましたので、さらなる被差別部落探訪の必要はなし・・・。
部落史研究の現在の動向を把握するために<Google論文>で関連文献に目を通す・・・
部落史研究の現在の動向を把握するために<Google論文>で関連文献に目を通すことにしました。
日本のインターネット上では、部落史研究に関する記事の掲載は<制限>されているようで<言論弾圧>の最中・・・。 日本語の記事で部落史研究の動向を把握することはかなり難しいので、<Google論文>で<buraku>・<burakumin>を基本的なキーワードにして関連文献を検索、関連文献を一読することで部落史研究の現在の状況を確認することにしました。
それにしても膨大な数の部落問題・部落史関連の論文が存在します。 <Google論文>で<buraku>で検索しますと1000件ヒットします。 ブログ『部落学序説』の主張と同じ主張をしている英文の部落問題・部落史関連の論文があるのかどうか・・・?
日本のキリスト教会の無学歴・無資格 (Academic Outsider)の一牧師が、教会の宣教と牧会の過程で被差別部落とその出身者に出会い、部落差別のマイナスイとプラスの両面を様々な事象に遭遇・経験し、その中で被差別部落探訪と公立図書館でその関連史資料を調べることで到達した歴史の真実を綴る英語論文にどのような意味があるのか、定かではありませんが、日本の部落史研究者の著作の<焼き直し>が多い英語論文の世界で、日本の被差別部落とその歴史の真実を語ることは決して無意味ではないでしょう。
今朝の居間の温度は23.9°C、湿度80%・・・
今朝4:00に起床、朝の健康管理をして『英訳聖書』(NSRV)の通読、そのあとOutStretch をしました。 今朝のOutStretchはいつものOutStretchに加えて腰痛を取るためのOutStretchを加えました。
今日は妻は外出しますので、家の中を大掃除します。 ついでに蔵書の整理も・・・。 部落史関連の書籍を書庫から取り出していつでも閲覧可能にします。 京都大学大学院を出られた日本文化史研究者の方からすすめられて日本の古本屋経由で集めた部落史研究の基本的な史資料・論文集、入手したまま一度も読んでいないものが多々ありますので・・・。
インターネットで閲覧できる部落問題関連の記事・画像・動画は、日本の政府・地方行政の反差別を訴えるものから被差別部落に対する誹謗中傷まで、どれもイメージの暗いものばかり・・・。 両者に通底しているのが、差別思想<賤民史観>なのですから当然といえば当然なのですが・・・。 差別思想<賤民史観>にもとづいて、被差別部落の人々を中世・近世の<賤民>の末裔と教育したり教育されたりして負のイメージを刷り込まれたあとで、いかに<部落差別をなくそう>、<部落差別をしないようにしましょう>と訴えたところで単なるお題目に終わってしまいます。
差別思想<賤民史観>に典型的にあらわれる左翼主義思想の<解放>理論を打破し、ひとりでも多くのひとが、被差別部落出身であるといなとを問わず、差別思想<賤民史観>という<差別の鉄鎖>という桎梏から解放されることを願ってやみません。
2023/08/20
牧師としてどう生きるかは、派遣された地方と教会で決まる・・・
高校生のとき、Sweden Covenant Missionの宣教師からこんな話を聞いたことがあります。
<牧師としてどう生きるかは、派遣された地方と教会で決まる。 >
基督教会の牧師は、<神の召命>を信じて、アブラハムの信仰と同じく行く先を知らないで任地におもむきます。 その赴任先で牧師としてどのように生きるかは、派遣された地方と教会で決まると、同じことを神学校で講義していたのは関田寛雄教授でした。 Sweden Covenant Missionの宣教師グンナル・クリスチャンソン先生と同じアドバイス・・・。
その関田教授、神学校の最後の授業のとき、<君は、隠退牧師になったとき1冊の説教集を出して終わるような生き方はしないほうがいい。 派遣された教会には、その地方と教会に固有の課題がある。 牧師としてどういきるかは、その派遣された教会で決まる。 君は、ひとつのテーマを徹底的に研究して、隠退牧師になったときその研究成果を1冊の本にまとめたほうがいい・・・>と語りかけて来られました。
日本基督教団西中国教区の山口のちいさな教会の牧師をしていた30年間、そこで地方と教会から与えられた課題は、部落差別問題との取り組みでした。 その取り組みは、
1. 『部落差別から自分を問う』
2. <「部落民とは誰か」ー<穢多>を尋ねて長州藩一人旅―>
3. <討議資料の欺瞞性を撃つ 賀川豊彦は差別者か>
4. 『部落学序説』
5.『被差別部落の地名とタブー』
6. 『田舎牧師の日記』
7. <吉田向学講演録>
で文章化されていますが、Sweden Covenant Mission の宣教師や神学校の関田寛雄教授から課せられた課題はまだ達成していません。 『公立学校共済友の会だより』に個人出版のサービスが紹介されています。1冊100ページで、50部、100部で出版が可能であるようです。 人生はすべからく未完で終わるのが常ですが、無学歴・無資格 (Academic Outsider) の私が私に課せられた課題を達成できるかどうかは定かではありません。 Google の Blogger 上で数冊執筆してそのなかから1冊、本として出版することになるでしょう。 しかし、本にする前にBlogger上で公開しますので、出版する意味はほとんどないかもしれません。
かっての学校同和教育がもたらしたもの・・・
2013年4月1日に日本基督教団の隠退牧師になり、妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農しました。
日本基督教団西中国教区の山口のちいさな教会の牧師をしていた30年間、機会にめぐまれて、部落解放同盟新南陽支部の学習会に参加、いろいろな方々から、人々から被差別部落として差別されたり排除されたりした被差別経験だけでなく、それにいかに抗して生きてきたか、話をお伺いすることができました。 また、新南陽支部の支部長さんに、その被差別部落の歴史を調べることを求められ、徳山市立中央図書館の郷土資料室や山口県立図書館でその歴史を調べると共に、その史資料に出てくるほかの<穢多>村・<茶筅>村(非人村)を尋ね、その古老から聞き取り調査をすることができました。 その多くは未指定地区でした。
部落解放同盟新南陽支部の方々は、私が彼らと交流のない未指定地区の被差別部落に行って聞き取り調査をしたきたことに驚きの思いを持っていました。 書記長さんは、<山口の被差別部落の人々は、村に入ってきてその話しをききたいというひとに遭遇したことがなく、見ず知らずの人に先祖の歴史を話すことに警戒感を持っていない可能性がある・・・>と話されていました。
しかし、妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農してからは、被差別部落やその住人の方々と出会う機会は皆無で、湖南史談会の現地調査や郡山地方史研究会の古文書講習会に参加して同和教育担当の元教師の方々と短い対話をするのみでした。 福島県内の同和教育担当の元教師の方々が語る内容に、私は驚愕しました。 <その発言はまるっきり差別発言ではないか>と。 学校同和教育を担った元教師の記憶の中に残っているのは、『部落学序説』の私が差別思想であると指摘する<賤民史観>のみ・・・。 学校同和教育で指導する側がそうなのですから、彼らに教えられた生徒たちの授業後に記憶に残るのは、差別思想<賤民史観>のみ・・・。 <同和地区の住人は、江戸時代に差別され排除されていた賤民の末裔である>という差別思想<賤民史観>の骨子のみ・・・。 同和教育を担当した教師もその授業を受けた生徒も、差別思想を脳裏に刻みこんで終わっている・・・。 東北は、部落差別が無いのではなく、典型的な差別意識が温存されている場所である・・・、と認識せざるを得ませんでした。
私は日本基督教団の<隠退牧師>ですが、<元牧師>ではありません。 学校教師は引退すると<元教師>になるのでしょうが、日本基督教団の牧師は隠退しても<牧師>のままです。 教会の主任担任教師として教会の伝道と牧会に従事することはなくなりますが、<隠退牧師>という<牧師>として主なる神さまから与えられた職務の遂行を続けることになります。 しかし、ここ福島では、山口における被差別部落の方々との出会いはほとんどあり得ないと思われます。 妻のふるさと湖南町赤津村は、郡山市の西の最果ての村・・・。湖南から郡山に行くのに、山口県の下松市から山口市へドライブするのと同じ時間がかかります。福島の地にあって、隠退牧師の私が<部落探訪>をするのは時間的にも地理的にも経済的にも精神的にも不可能です。
できることがあるとすれば、京都大学大学院を出られた日本文化史研究者の方から進められてインターネットの日本の古本屋経由で収集した東日本・東北の被差別部落に関する史資料・論文集を読んで、解析、ブログ『部落学序説』の視点・視角・視座である<非常民論>や<新けがれ論>から批判検証することのみ・・・。 郡山地方史研究会の古文書講習会のテキスト(古文書の写真版)に<穢多>に関する記載があるものも少なくありません。<司法警察官>としての捜査方法が記載されている古文書も含まれていました。
現在の学校同和教育の背後にある差別思想<賤民史観>・・・
現在の学校同和教育はどのように展開されているのか・・・?
少しく関心を持って、インターネットで検索してみました。 すると、大阪教育大学教授の森実氏の言葉に遭遇しました。 森実氏の自己紹介は・・・。
<1984年に着任して以来、本学で同和教育や部落問題の授業を担当しています。 おもな関心は、部落問題をはじめ、さまざまな社会的・政治的な課題を個々人が自らの問題として考えるようになるプロセスにあります。 学生時代以来、部落問題や障害者問題、被爆二世の問題、女性差別などで、差別と自分との関わりを考えてきました。 その延長線上に最近関心を持ち、考えようとしているのは、次の5つです。 2002年度より、国際人権論や人権教育論の授業も担当することになりました。
1.同和教育
同和教育の実践は数多くの財産を持ち、世界に発信できる内容も豊かに蓄えています。 それを整理し、わかりやすく表現できないかというのが最大の問題意識です。 もちろん、それをさらに発展させられないだろうかとも考えています。 >
その森実氏、別のサイトで、<江戸時代まで武士社会にあった女性差別の考え方や仕組みが、明治時代になって民法のなかに明確に位置づけられ、全国民に行き渡るようにされました。たとえば、親権は父親にのみ認められるようになりました。外国人についても、江戸時代には海外侵略はなかったのに、明治になってからは繰り返し対外戦争をすることになっていきました。他の差別についても同様の面があります。それらとの関連で、部落差別の歴史を捉え直す必要があります。>と綴っていますが、その文言のは、部落差別について研究・教育するとき、その背後に<被差別部落の人々は近世幕藩体制下の穢多・非人の末裔であり、彼らに対する差別の考え方や仕組みは明治になっても継承され全国民に行き渡っていきました>という差別思想<賤民史観>が根強く存在していることを物語っています。 <部落差別の歴史を捉え直す必要があります。>と言われますが、左翼主義思想の解放理念にもとづく差別思想<賤民史観>を見直し、それを批判・払拭しない限り、 部落差別の歴史を捉え直す>ことは不可能でしょう。 ほかの学者・研究者・教育者・運動家・行政担当者と同じく、部落差別の拡大再生産に資することにとどまるでしょう。
他の人のブログをほとんど読むことがないのに・・・
私はブログで『部落学序説』とその関連ブログ群を書いてきましたが、私はほかの人が書いた部落問題・部落史研究、同和教育・同和事業、各種運動団体に関するブログ、ホームページを読むことはほとんどありません。
今日、久々に『全国部落調査』に関係した動画(YouTube)を見ていましたが、見ていて不愉快になり、インターネットで公開されている部落差別に関する動画はえてして部落差別をもてあそぶ類の動画ばかりなのだろうと、思いました。 <部落探訪>と銘打つ動画のなんともいえない浅はかさ・・・。 多分、部落差別がなになのか分かっていないのだろうと推察せざるを得ませんでした。 『全国部落調査』を公開した側も、それに反対して裁判闘争に持ち込んだ側も、裁判所側も、判決のあとの法務省通達を出した側も、みんな、『部落学序説』の筆者の私が差別思想と断定する<賤民史観>の<信奉者>たちであるようです。
『全国部落調査』に関する問題は、やはり部落解放運動をする側の自作自演の可能性が高いようです。 部落差別が完全解消されると困る人々は、被差別部落の人々が近世幕藩体制下の<賤民>の末裔であり近代に入っても差別され続けてきた人々で、左翼主義思想に基づく解放理論によって、彼らを最下層の身分から<解放>するための運動と位置づけ、戦前においては水平社運動に、戦後は部落解放運動に被差別民衆を動員、<被差別>を理由に国や行政に同和対策事業を承認させ同和対策資金など各種利権にあずかってきた学者・研究者・教育者・運動家・行政担当者の内部分裂的、党利党略的闘争がもたらしたもの・・・。
一般の国民の預かり知らぬことです。
居間の温度は30.5°C、湿度65%、外は無風状態・・・
午後0:30、居間の座卓の上に置いた温度計では、気温30.6°C、湿度65%です。 外は無風状態・・・。 庭の木も観音堂の上の旗振り山の木々の小枝も揺れることのない<無風状態>・・・。 居間の扇風機の風は昨日と同じでなまあたたかい・・・。
晴耕雨読は、この夏は、<朝耕昼読>、<曇耕晴読>・・・。 しかし暑さで頭の回転が鈍く読書する雰囲気ではありません。
昨日の夜、『全国部落調査』 (1936)のインターネット公開が引き起こした問題に関連して都道府県がそれに反対する声明をネット上で公開しているのを一瞥していました。 どの都道府県の<抗議声明>も内容はほぼ同じ・・・。 山口県立図書館の研究員の木下先生が、<部落問題に関する本は誰が書いた本を読んでも中身は同じ。 金太郎飴のようだ・・・>と話しておられましたが、今回の問題をめぐる都道府県の<抗議声明>も金太郎飴・・・。 しかし、比較検証することでそれぞれの都道府県の<抗議声明>の背後にあるそれぞれの都道府県の部落差別完全解消に寄せる不熱心な、ありばいつくりいてきな姿勢を明らかにすることができそうです。
<金太郎飴>現象は言論弾圧の結果にほかなりません。
朝5:30~8:80温水田の刈り取った草を温水田の外に運び出す・・・
今朝4:30に起床、『英訳聖書』(NSRV)を通読したあと、朝5:30~8:30、温水田の刈り取ったあと水面に浮かんでいた草を熊手で集めて温水田の外に運びだしました。
段々畑や常夏川沿いの田畑転換した畑で夏野菜の収穫をして棚田にやってきた妻、草をすべて除去した温水田を見て、<きれいになったわね。 でも、無理をしない方がいいわよ。 朝といっても気温も湿度も高いのですから・・・>と語りかけてきましたが、<無理はしていないけれど、刈った草を集めて外に持ち出すだけで、かなり時間がかかる・・・>と答えました。
温水田の真ん中に立って、北を見るとコシヒカリの田と備中レンコンの蓮田が、西を見るとヒメノモチの垂れた穂とその奥にはえぬきの穂が見えます。 南を見ると28m長さのトマトの雨除け栽培用トンネルと育苗用ハウスが、東を見ると田畑転換した畑の各種夏野菜とわら塚が見えます。 温水田の真ん中に立って380°C周囲を見渡しますと、妻の実家の棚田の上中下段の3枚の連続した田で妻と私が何をしているかを一望することができるようです。 最近あまりデジカメで写真をとっていないので、この風景を写真に残しておいた方がいいと思いましたが、明日の朝、写真を撮ることにしましょう。
8:00には温水田に朝の日差しが差し込んできますので、8:30に除草を終えるとすぐ家に戻ってきました。 9:30に朝食をとったあと、疲れて、10:00~11:30まで仮眠をとりました。
2023/08/19
番太の在所は<ちょっとした坂の途中>・・・
本田豊著『差別部落の形成伝承』の<部落史研究の落とし穴ー前書きに代えて>にこのような一節がありました。
<「番太」といわれていた人たちが住んでいる・・・ここには2軒の番太がいた。 ちょっとした坂の途中である>。
日本基督教団西中国教区の山口のちいさな教会の牧師をしていたとき、妻とふたりでよく山口県内の未指定地区の被差別部落を訪ねたことがあります。 長州藩萩本藩の高佐郷もそのひとつです。 近世の高佐郷には、<穢多>の在所が1箇所、 <非人> (茶筅)の在所が1箇所ありました。 山口県立某高校で同和教育を担当されていた元教師の方の紹介でその<茶筅>の末裔の方を訪ねて聞き取り調査をしたことがあります。
意気投合していろいろな話をお聞きすることができましたが、そのとき、その古老の方から<部落がどのような場所に置かれたか、あなたにはほんとうのことを教えてさしあげましょう。 非人役と言われた人々が住んでいた場所は◯◯として共通しています。 ◯◯ という地理的特徴を持った場所が穢多や非人が配置された場所です・・・>ということを教えられました。
本田豊著『差別部落の形成伝承』の <「番太」といわれていた人たちが住んでいる・・・ここには2軒の番太がいた。 ちょっとした坂の途中である>を読みながら、その<ちょっとした坂の途中>という言葉に、その◯◯を思い出しました。 <ちょっとした坂の途中>は◯◯のひとつであったのです。
本田豊氏がその◯◯をご存知かどうか、8冊の著作を読むときにいつもそのことを念頭において読むことにしましょう。 <ちょっとした坂の途中>は<番太>が司法警察官としての職務を遂行するときの最適な場所だったのでしょう。 坂の一番上でも一番下でもその職務を十分に果たすことができない。 国土地理院の地形図と照合すればそのことがよりはっきりします。
部落差別を完全解消のために・・・
部落差別を完全解消するために・・・
一国民としてすることができることは何なのでしょう? 部落差別をとりのぞくために一国民として誰でもすることができる基本的なことは、自分自身の中から被差別部落とその人々に対する差別意識を取り除くことです。
どのようにして内なる差別意識を取り除くことができるのか? それは、被差別部落の人々とその先祖に対する正しい歴史認識を持つことです。 正しい歴史認識を持つには間違った歴史認識を取り除く必要があります。
それではその間違った歴史認識とは何なのでしょうか? 被差別部落の人々に対する間違った認識は、被差別部落の人々とその先祖をマイナスイメージでとらえることを意味します。 身分制度の最下層の人であったとか、百姓・町人より劣った人であったとか、人の嫌がる仕事を押し付けられた人であったとか、身分外身分であったとか、アウトカーストであったとか、社会的に排除・疎外されていた人であったとか・・・、いわゆる被差別部落の先祖を<賤民>という差別用語で研究したり、調査したり、被差別部落の人々を近世の<賤民>の末裔として、学校同和教育・社会同和教育で吹聴したり、洗脳したりして、日本の国民に差別思想<賤民思想>を植え付け、それを背景にして、そのことで国や行政から同和対策資金・補助金・科研費を獲得して所属運動団体・所属政党に利することを企んでいる<似非同和行為>をする学者・研究者・教育者・運動家・政治家・行政官の歴史認識のことです。
一国民として、そのような差別教育に異を唱え、そのような差別思想<賤民史観>から解放されて自由になり、すべての人間の平等の理念に立ち返ること、学校や職場や、社会や運動団体がどのような立場をとっていても、一人の人間として、すべての差別から解放され自由な生き方をできる人として、自分自身の生き方を見直すことは、誰にでもできます。
<全国部落調査> (1935) を使った被差別部落聞き取り調査法 ・・・
午前中、本田豊著『被差別部落の形成伝承』を読んでいました。
部落史研究者の本田豊氏は、解放出版社の編集部から依頼され、その雑誌『部落解放』に東日本の被差別部落探訪記事を掲載してこられた方ですが、その聞き取り調査の内容をまとめて本にしたのが『被差別部落の民俗と伝承』 (1998) 、その続編として執筆されたのがこの『被差別部落の形成伝承』です。
この本の中には、<全国部落調査> (1935) を使った被差別部落聞き取り調査法が紹介されています。
本田豊氏は、被差別部落の<伝承を採集する際には、何度も何度も同じ部落に足を運んで、強い人間関係をつくるところからはじまる。 そして、世間話によく耳を傾け、共に笑い、共感しつつ、自然に聞くよりないのである>といいますが、日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたとき教区総会で新設したばかりの西中国教区部落差別問題特別委員会の委員を押し付けられ、その委員長より、西中国教区がそれまでかかわってきた広島社会館のっ取り組みとは関係のない山口県内で取り組みをしろと<枠>を課せられました。 被差別部落出身でも、部落差別問題にかかわったこともない私が山口の地で被差別部落の中に入って運動をするなんて100%あり得ないことです。 しかし、山口県立高校の教師や新聞記者などによる<読書会>に参加したことで被差別部落との接点が生まれ、部落解放同盟新南陽支部の<学習会>に参加が許されるようになりました。 そのことで、私は、本田豊氏のいう<何度も何度も同じ部落に足を運んで、強い人間関係をつくるところからはじまる。 そして、世間話によく耳を傾け、共に笑い、共感しつつ、自然に聞く・・・>ことで被差別部落の生活と暮らし、歴史と民俗、被差別体験と差別をはねのけて生きてきた証言をたくさん聞くことができました。 その一部は録音してそれを私がワープロで冊子にしました。 そしてあるとき、部落解放同盟新南陽支部の支部長さんに頼まれて、その部落の歴史を調べることになりました。
本田豊氏の著作を読んだのはつい最近ですから、本田豊氏の著作を読む前に、徳山市立中央図書館郷土資料室で被差別部落の在所を記したリストを探し、それを手がかりにその被差別部落の歴史を調べ、現地におもむいてその古老から聞き取り調査をすることになりました。 そのとき、私が被差別古老に、<私は被差別部落出身ではありません。 しかし日本基督教団西中国教区の部落差別問題特別委員会の員を押し付けられたのですが、部落問題に関する本を読んでも部落差別がなになのか、よく分かりません。 それで、被差別部落に出向いて、被差別部落の方がから直接話をお伺いした方がいいのではないかと思って、徳山市立中央図書館の郷土資料室でその在所を調べて訪ねてきました。 よろしければ、お話をお伺いしたいのですが・・・>と語りかけました。 私は一度も被差別部落の人々から聞き取りを拒絶されたことはありませんでした。 尋ねていく前に史資料でその被差別部落の歴史をあらかじめ確認していましたので、<共通の話材>を用意していましたから・・・。
部落史研究者の本田豊氏の<全国部落調査> (1935) を使った被差別部落聞き取り調査法 ・・・、私が入手した本田豊氏の8冊の著作 ( 『被差別部落の民俗と伝承』・『被差別部落の形成伝承』・『白山神社と被差別部落』・『江戸の部落 部落史研究の課題と方法』・『江戸の非人 部落史研究の課題』・『部落史からみた東京』・『戦国大名と賤民 信長・秀吉・家康と部落形成』・『部落史を歩く ルポ東北北陸の被差別部落』)を読み終える頃には、本田豊氏の歴史的研究法・民俗学的研究法を身に着けていることでしょう。
といっても、部落史研究者の本田豊氏の<全国部落調査> (1935) を使った被差別部落聞き取り調査法を今棲息している東北福島の地で実践することは100%ありません。 インターネットで『全国部落調査』 (1936)を入手した被差別部落内外の若い人は本田豊氏の被差別部落調査法を実践してみてはいかがでしょう。 日本の社会から部落差別を解消するという高邁な理想を掲げて・・・。
居間の扇風機の風が生ぬるい・・・
ヒートインデックスは36°C。 室内でも脱水症状の危険があり、熱中症に対しては<極度の注意>が必要なレベル・・・。
外は無風状態・・・。 福島県内は熱中症警戒アラートが出されています。 <ここらのもん>湖南の赤津村のプロの農家は、この暑さでも農作業に余念がありませんが、<よそもん>の素人百姓の私には日中の農作業は不可能です。
日本基督教団の西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたとき、笠戸島の半農半漁の農家出身の高齢の教会員の姉が草取り法を教えてくださいましたが、すべての農作業を根切り鎌1本でこなす人・・・。 その姉が口癖のように話していたのは、<草を取らなくても人は死なない。 しかし、取ったばかりに死ぬことがある。 > 農業はいのちをはぐくむためにするもの。 そのための農作業によって自らに死を招くというのは本末転倒・・・。
コシヒカリの穂がほぼ出そろう・・・
今朝起きたのは朝5:00・・・。
妻が野菜の収穫に軽トラででかけたあと、私は自転車で棚田の田に向かいました。
温水田は、この前刈り残したコナギが繁茂、ムラサキ色の小さな花を一斉につけはじめていました。 そこで、ダイヤモンドヤスリで鋭い刃を付けた四角ホーを使って、カミソリでひげを剃るときのようにコナギをそぎ落としていきました。
朝6:00~はじめて8:30で作業終わり・・・。 高温多湿で無風状態の中で草取り作業をしていましたが、8:00過ぎるころになると朝の日差しが差し込んできてあたまが熱く感じられるようになりましたので作業を中止しました。 刈り取って温水田の水面に浮かんだ草は明日の朝熊手で集めて温水田から取り除きます。
棚田の中段の温水田で草刈りをしながら、下段のコシヒカリの出穂状況を確認したのですが、コシヒカリの草丈も伸びほぼ穂が出揃ったようです。 晩稲のコシヒカリの穂が出揃うのは例年8月25~30日頃ですが、今年は少しく早く穂が出揃ったようです。 コシヒカリの出穂状況を見ながら主なる神さまに感謝の祈り・・・。
2023/08/18
夜10:30の居間の温度と湿度・・・
夜10:30の居間の温度は29.3°C、湿度68%・・・。
夜夕立ち・・・。 救急車が大きなサイレンを鳴らして、妻の家のすぐそばにとまりました。 近隣の庭に入ってとまったようです。 妻の実家のある集落はほとんどがオール電化・・・。 クーラーも作動しているでしょうから、熱中症になる可能性はありません。
妻はとても心配していましたが、話しかけると、<よそもんがよけいな気遣いすんでねえ! じゃまだ! 消えろ! >とどなられそうなので、2階の窓から無事であるように祈るだけでした。
赤津村の某組合の会計の引き継ぎの完了がなされていないので、この前某組合の組合長が会計の引き継ぎに必要とかで一般会計の通帳と印鑑を持って帰られましたが、巨額な定期預金の通帳は前の会計担当のプロの農家からまだ引き渡しを受けていないようで、一般会計の通帳と巨額な定期預金の通帳の名義変更は進んでいないようです。
<よそもん>の私に某組合の巨額な定期預金の通帳を渡すことに不安とためらいをもっておられる<ここらのもん>は少なくなさそうですから、いくら順番でも<よそもん>の私を会計にすべきではなかったと思われます。 <よそもんがここらのもんにケチつけるんでねえ! ここらにはここらのやり方があんだ! > なにかあるごとに耳にする言葉です。
本田豊とは・・・
本田豊は、実際はどういう人なのか・・・?
Wikipedia にこのような紹介がありました。
<本田 豊 (ほんだ ゆたか、1952年5月 - ) は、日本の部落史家。部落問題論、被差別社会史論専攻。
埼玉県児玉郡児玉町(現・本庄市)出身。 1975年、埼玉大学中退。 1978年から1989年まで、埼玉県史編纂委員を務める。 1990年から東京都立大学人文学部非常勤講師を務めていた。
30年以上にわたって、日本全国4000箇所以上の被差別部落(同和地区の指定を受けなかったものを含む)を踏破し、被差別部落に関して多数の著書を持つ。北海道には道外の被差別部落からの移住によるものが、また沖縄には遊芸民「チャンダラー」の被差別部落が存在するという主張は、学界で支持を得られておらず、各種同和団体にもまた承認されていない。
「部落問題の柳田國男をめざす」と言っている>。
本田豊氏の被差別部落探訪は、 4000箇所/30年/365日≒0.365箇所/日・・・。つまり、本田豊氏は30年間に渡って3日に1度日本全国の被差別部落を新たに探訪していることになります。 そういうことが可能なのか・・・? 柳田國男は公務員として多くの人を動員して民俗学の資料を集めたといわれていますから、本田豊氏の「部落問題の柳田國男をめざす」という言葉は、本田豊氏は被差別部落探訪・聞き取り・文章化の総括者であって、実際の作業は他に多くのスタッフがいたということを暗示しているのでしょうか・・・?
なぜ本田豊について言及することが差別文章として閲覧禁止・削除処分の対象になるのか・・・?
Gooblogの事務局の担当者から、私のブログを差別文書として閲覧禁止・削除処分にすると通告を受けたとき、<どの部分が差別文章なのか>指摘してもらおうとしたのですが、事務局の担当者の方は、<そのことは答えられない。 法務省通達にもとづく処分です>としか答えませんでした。
それで部落差別について書き続けたとき、電話で担当者の方が<本田豊の本を注文したとか、その内容を紹介するのは閲覧禁止・削除処分の対象になる>と返答がありました。
今日の午後、本田豊著『被差別部落の形成伝承』を読んでいて、このような言葉に遭遇しました。
<1935年の中央融和事業協会の調査によれば、この地域は戸数10・人口70とある。 職業は農業・商業・日雇いとある。 生活程度は「中」ともある。 そして、この地域の隣には、1戸・2人、と記録にはある地域も出てくる。 問題なのは、この1戸・2人と記録のある地域なのである・・・>。
つまり、Gooblogの事務局の担当者が、私の本田豊の本を紹介している文章を差別文章として閲覧禁止・削除処分の対象にすると通告してきたのは、本田豊の被差別部落探訪の記事が1935年の中央融和事業協会の調査『全国部落調査』に基づいており、本田豊の本を読めば『全国部落調査』を使って被差別部落を探訪する方法、その知識・技術が分かるという危惧が働いたためかもしれません。
解放出版社の雑誌『部落解放』の編集者に頼まれて東日本の被差別部落の探訪をし、聞き取り調査の結果を本として出版してきた本田豊氏がその調査に使った『全国部落調査』が<地名総鑑>としてインターネットや出版で公開されることを危惧した部落解放同盟によって<坊主(『全国部落調査』)憎けりゃ袈裟(本田豊氏の著作)まで憎い>として、ネット上からの抹殺を図られたようです。
その本田豊氏の著作を集め、その内容を紹介する吉田向学とそのブログ上の文章に対しても、Gooblogの事務局の担当者は<坊主憎けりゃ袈裟まで憎い>と言論弾圧の鬼と化してなりふりかまわず吉田向学のブログを閲覧禁止・削除処分にしてきたようです。 本田豊氏、現在の部落解放運動と部落史研究のふがいなさを嘆いておられることも反感を買ったのではないでしょうか・・・?
<福島県の被差別部落>を読む・・・
午後、本田豊著『部落史を歩く ルポ:東北・北陸の被差別部落』の<福島県の被差別部落>の章を読んでいました。
使われている史資料は、1936年の財団法人中央融和事業協会『全国部落調査』と『新編会津風土記』・・・。
2013年日本基督教団の隠退牧師になり、妻のふるさと・福島に帰郷・帰農したあとはおりにふれて、福島県の被差別部落に関する文献・史資料を集めてきました。 郡山地方史研究会主催の古文書研究会のテキスト、できる限りバックナンバーを集めましたが、そのなかにも、<穢多>という言葉が出てくる古文書も少なくありません。
『部落学序説』のなかで私が<常民>・<非常民>概念で近世の社会構造を見ていますが、その<非常民>概念の外延は西日本のそれとはかなり異なってきます。 <百姓支配>の側の<非常民>と<武士支配>の側の<非常民>が同じ名称で表現されています。その役職が<百姓支配>の側か<武士支配>の側かは、史資料ごとに判断する必要があります。 そうすることで同じ名称で隠されていた西日本の<穢多>役・<非人>役の姿が明らかになってきます。 近世幕藩体制下の福島県内のテリトリーには、幕府の法の支配のもとにある各藩の藩法における司法警察である役を担った人々の存在を確認することができます。 彼らが明治以降どうなったのか、多くは福島県の<名士>になっていったようで、福島県では近世幕藩体制下の<穢多>役・<非人>役について語ることはタブーになっています。 いわゆる<脱賤>が進んだためでしょう。
解放出版社発行『身元調査』・・・
しかし、その当時、<被差別部落について調べることは差別である>という一般通念・一般観念に拘束されていた私はその支部長さんの依頼を受けることはできないとお断りしたのですが、支部長さんがあまりに熱心に求められるので承諾することになりました。
そのとき被差別部落の探訪と調査のために使用した文献のひとつに解放出版社から出された藤林普一郎著『身元調査』があります。 部落解放同盟新南陽支部の支部ちょうさんから求められたことのひとつに、<差別者がどのようにしてこの場所を被差別部落として知りうるのか、その過程も知りたい>というのがありました。 それで私は生まれてはじめて被差別部落の調査をすることになったのですが、調査にあたって読んだ参考資料のひとつが藤林普一郎著『身元調査』です。
この本は部落解放同盟の出版社・解放出版社から出版された本なので特に問題はないだろうと思って『身元調査』を精読することにしました。 藤林普一郎著『身元調査』は、ただしく使えば、被差別部落の青年たちが先祖の歴史を調べそれを継承して生きて行こうとするときにはとても役立つ本です。
第1章 身元調査報告書からー問題の所在
第2章 興信所・探偵社
第3章 戸籍簿の「公開」と差別
第4章 住民票とその他の公簿と「公開」
第5章 コンピューター化社会とプライバシー保護対策
付録 身元調査関係資料
AmazonとBOOKOFF ONLINEでは入手付加、日本の古本屋ではまだ3冊入手可能です。 藤林普一郎著『身元調査』はまだ差別文書にも閲覧禁止・削除処分の対象にもなっていないのでしょう。 藤林普一郎氏は<身元調査は悪魔の使い>といいます。 しかし、その方法と実態を明らかにしまとめられた『身元調査』は<両刀の刃>になりかねません。『身元調査』が解放出版社から出版されたのは1985年・・・。 <日本が近代社会に入ってから百十余年になるが、まだまだ公的社会から「社会的弱点」を探し出す悪しき社会慣習は消去されていない。 一日も早く、日本の社会が人の足を引っぱることに社会の大きなエネルギーを傾けるという後ろ向きの姿勢を改ねばならないと思う>と藤林晋一郎氏が綴ってから40年になろうとする現在においても<悪魔の使い>は部落解放運動の内外で暗躍を続けている・・・。
そこまで調べているならもう何もいいません。 お好きなだけ調べなさい。
午前中、妻の趣味の手芸の手伝いをしました。
右手関節障害のある私には細かい作業をすることはできないのですが、できるところまででいいといいますので・・・。
居間から見る空は真夏の空、白い雲がぽっかりと浮かんでいます。 居間の温度計は31.8°C、湿度は57%・・・。 以前として風はなし・・・。
手伝いをやめたあとは、本田豊著『部落史を歩く ルポ東北・北陸の被差別部落』の原田伴彦著<序にかえてー東北・北陸地域の部落史研究>と本田豊著<あとがき>を読んでいました。
雑誌『部落解放』の編集者から依頼されて、<横なぐりの雪が吹きつける1978年、東北地方の被差別部落を歩きはじめた>そうで、本田豊氏は<全国の部落をひとつ残らず歩いてみようと、その実践中である。 部落問題には、普遍性と独自性が存在すると思うから。 >と記しています。
なぜ被差別部落の探訪をはじめたのか、私の手元にある本田豊氏の8冊を精読すればその中に本田豊氏の被差別部落探訪の動機が記されているかもしれません。
私は日本基督教団の牧師をしていたとき、その学習会に参加させてもらっていた部落解放同盟新南陽支部の支部長さんに求められて<被差別部落探訪>をはじめましたが、<私は差別者の側に身を置く身なので、歴史の事実に即した調査ができるかどうか確信はありません>と答えますと、<差別者の立場でもいいから調べてほしい。 そして調べて分かったことはいいこともわるいことも包み隠さずありのまま教えてほしい>と言われ、<被差別部落探訪>を承諾しました。
<調べている間になにか問題にぶつかったら、私の名前をだし私に依頼されたといえばいいから・・・>といわれましたが、私は一度も部落解放同盟新南陽支部の支部長さんに調査を依頼されたと弁明したことはありませんでした。 日本基督教団の牧師として差別者の立場からの被差別部落の調査と探訪に徹しました。
ブログ『部落学序説』を執筆するまえの3年間、私は山口県立高校5~6校に勤務したことがありますが、職員室にほかの高校教師に並んで席を用意され、休憩時間に同和教育担当の高校教師の方々と同和教育・解放教育について意見交換しました。 『部落学序説』の執筆計画を話し、いろいろ助言を受けました。 その際にも、部落解放同盟新南陽支部の支部長さんから調査の依頼を受けたことは話しませんでした。 あくまで日本基督教団の一牧師として自己責任で被差別部落の探訪と調査を続けていました。
一度公立図書館からの通報で山口県立図書館の研究員の木下先生がその公立図書館にやってこられ、私に語りかけて来られました。 <あなたが部落関連の書籍をよく読みにくるとの連絡があったのでやってきましたが、被差別部落について調べることは差別ですよ>と。 木下先生は、<あなたがどこまで調べたのか話してください>といわれますのでそれまで調べたことをありのまま答えました。 <長州藩の穢寺は4ケ寺ですが、どこでそれを知りましたが?>とさらに問いかけてこられますので『地下上申』や『防長風土注進案』やそのほかの史資料の該当ページを開いて説明しました。 <周防の国の茶筅寺は1ケ寺だけですよね>とさらに問いかけて来られますので<古文書には1ケ寺の記載しかありませんが周防の国はほかに2ケ寺あります。 3ケ寺で茶筅のすべてを網羅できます>と答えますと、木下先生、<どうしてそれを知りましたか?>と言われるので、<浄土真宗の寺を尋ねてその住職さんから教えていただきました。 >と答えました。 すると木下先生、<そこまで調べているならもう何もいいません。 お好きなだけ調べなさい。 あなたが被差別部落の人々を差別するためではなく部落差別を解消するために調べていることがよくわかりましたから。 やはり、あなたのようなひとが日本基督教団の牧師の中から出てきましたか・・・>と言われます。 <どういうことですか? >とお尋ねしますと、木下先生は、<運動用語や思想用語を用いないで、自分で被差別部落を歩いてその古老の語る言葉に耳をかたむけ自分で史資料を確認するようなひとは、私が知る限りでは2人目です。2人とも日本基督教団の牧師です・・・>といって、1人目の日本基督教団の先輩牧師の名前を教えてくださいました。
山口県立図書館の研究員である木下先生の<そこまで調べているならもう何もいいません。 お好きなだけ調べなさい。>という言葉は、私の被差別部落探訪とその史資料の調査に対する<公的なOK>でした。 木下先生がOKを出されたのは、木下先生の言葉を借りれば<部落史の学者・研究者・教育者・運動家の語る部落問題は金太郎飴と同じで誰のどの論文を読んでも同じ顔しか出てこない。 金太郎飴の切り口とは違う切り口で、被差別部落の伝承と史資料に即して被差別部落の歴史を調べようとしている>私に対するひとつの<公的な>認証であったと思っています。
昨夜はCollocation Dictionaryを見比べていました・・・
昨夜は、居間に侵入した虫を取り除きながら、Collocation Dictionaryを見比べていました。
1. Macmillan Collocations Dictionary for Learners of English
2. Longman Collocations Dictionary and Thesaurus
3. Oxford Collocations Dictionary for Students of English
4. プログレッシブ英語コロケーション辞典
5. 英和活用大辞典
無学歴・無資格 (Academic Outsider) の私が一番使いやすいCollocation Dictionaryは1.の辞書です。 パソコンにインスールされているのは3.だけですが、1.と2.で辞書引きするときにも使っています。
昨夜は居間に蚋・虻・蚊等の虫が大量侵入・・・
昨夜、居間の座卓の上に置いたノートパソコンを操作しているとき、居間の部屋の中に大量の蚋・虻・蚊等の虫が大量侵入していることに気づき、手作業でていねいに除去しました。 取り除くのに2時間を費やしました。 居間にいて虻に攻撃されるなんて・・・。
昨夜は蚋や虻の除去方法の検証のときとなりました。 農作業をしていないときは蚋・虻・蚊が顔や手の甲に止まりますと感触ですぐわかります。 蚋や虻を除去するために使うのは水・・・。 殺虫剤を使うと気分が悪くなるので妻も私も一切使いません。
昨夜は2階の寝室の温度は30.4°C・・・。 熱帯夜が続くこのごろです。
2023/08/17
夕方4:30~6:00苗代田の簡易温室のまわりの草刈り・・・
夕方、妻と一緒に国道294号線沿いの苗代田の簡易温室に行って、簡易温室の周辺の草刈りをしました。 40~50cm伸びた草を10cm刻みに草刈り機で刈り取って刈り取った草はそのまま<草マルチ>として置いておきます。
刈った後の草が<草マルチ>になるように草刈りをしますと、刈ったあとの草を熊手で集めてほかの場所に移動する手間を省くことができます。 少しく時間がかかりますが、後片付けをしないで言い分、草刈り作業全体は楽になります。
今日の夕方は無風状態・・・。 まるで瀬戸内海の凪のような状態でからだの中に熱がこもるような暑さでした。 この夏は、瀬戸内海の岡山より奥羽山脈のふところに抱かれた福島の方が気温が高く蒸し暑い日々が続いています。 高温多湿を喜んでいるのは、妻の実家の棚田の田のコシヒカリたち・・・。 60~70%穂が出ているようです。 あと数日でコシヒカリの穂が出揃うことになるでしょう。
夏日・猛暑日の続く日は、朝の農作業が一番快適に行うことができます。
不足している手芸用品の材料を買いに郡山へ・・・
今日、不足している手芸用品の材料を買いに郡山にでかけました。
SANKIというところで不足していた材料・器具をすべて揃えることができたそうで、すぐ湖南に戻ってきました。 県道郡山湖南線の気温表示は36°C、妻のくるまの外部温度は34°Cでした。 猛暑日・夏日で、途中、郡山の農家が何をされているのか観察しながら家に戻ってきましたが、農作業をしていたのは1軒だけ・・・。 畦に除草剤を散布していました。 やはり、熱中症予防のために田畑での農作業は自粛しておられるのでしょう。
<賤民>概念を使わないで部落史を書いた被差別部落出身の部落史研究者・松島卯平・・・
今朝、ある被差別部落出身の部落史研究者の書いた本をふと思い出しました。 最初、通読したとき、<この本には「賤民」概念が使われていない・・・>との印象を持ちましたが、それ以上突っ込んだ読み方はしていませんでした。
今朝そのことを思い出してその本を最初から最後までページをめくりながら目視で<賤民>という言葉を検索してみました。 やはり1回も<賤民>概念は使用されていませんでした。 被差別部落の先祖である<穢多>役・<非人>役を<賤民>とする差別思想<賤民史観>を全面的に否定する被差別部落側の部落史研究者による研究論文であるようです。 300ページのその本は、1949年に出版されたもの・・・。
戦後のまもない時期、<賤民>概念を用いないで被差別部落の歴史を書く被差別部落出身の部落史研究者がいたということは、差別思想<賤民史観>のとりこになって部落差別の拡大再生産を図り国や地方行政による補助金の獲得をめざす現在の学者・研究者・教育者・運動家のつくった流れとは別の流れが被差別部落の中にあったということを物語っています。 解放出版社の『新修部落問題辞典』にはその名前も著作も紹介されていない。 同じ出版社の『部落問題辞典』にはその名前と著作のみ記載されているのみでその論文の内容については一言も記載されていない・・・。 戦後の部落史研究者、部落解放運動家によってその業績が抹殺された被差別部落出身の部落史研究者であったようです。
<Bad money drives out good.> ならぬ<Bad theory drives out good.>
1階でも2階でも同じEnglishWriting環境を確保・・・
Amazonに注文してまだ未着の英語辞書は、次の2冊・・・。
『Oxford American Dictionary and Thesaurus, Second Edition』 (到着予定9月10日頃) と『The Oxford American Dictionary and Thesaurus: With Language Guide』 (到着予定10月2日頃)
前書は『Oxford American Desk Dictionary and Thesaurus, Third Edition』を使用していますし 『The Oxford American Dictionary and Thesaurus: With Language Guide』 は2冊目の注文ですので実質上私の英語辞書の収集は終わっています。
1階の居間と書斎、2階の私の寝室のパソコンでEnglish Writing するときの使う主な英語辞書・電子辞書はそれぞれ同じものを配置することにしています。 英語辞書を何冊も抱えて階段を登り降りするのは右手に関節障害があり握力が少ない私には大きな負担になりますので、その負担を軽減するための措置です。 Windows11Pro & Google Appsが定番になりました。
朝、共有ハードディスクに移動していたFile Serverのデータを確認・・・
今朝、Windows Server 2012R2のFile Server から共有ハードディスクに移動していた『部落学序説』とその関連ブログ群のデータを確認しました。
いろいろなファイル形式で保存していますので、2005年5月に書き始めた当時の画面も復元できます。 また、『部落学序説』とその関連ブログ群の文章に対して読者の方々から寄せられてコメントやメールも保存されています。 <無学歴・無資格を名乗り、学歴コンプレックスを持った者が部落差別問題を語ることはできない! >という学者・研究者・教育者・運動家からの誹謗中傷・罵詈雑言は言語に絶するものがあります。 被差別部落の人々の<無学歴・無資格>からの脱却こそが同和教育・解放教育の目標であり、学校同和教育・社会同和教育の意義を相対化するような<無学歴・無資格>を標榜した発言は許容できない、というものでした。 私は岡山県出身ですが、その岡山県の学校教師からの批難・罵詈雑言は、当時まだインターネット上のマナーが確立されておらず他者に対する誹謗中傷の場と化していましたので、その発言は同和教育・解放教育担当者の資質を自ら露呈するような内容でした。
部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々から、『部落学序説』とその関連ブログ群の文章に対する批判・批難にはできるかぎりていねいに対応するようにという要請がありましたので、誹謗中傷・罵詈雑言にたいして誹謗中傷・罵詈雑言をもってこたえるのではなく、彼らの公開された文章・論文に対する<批判>(学問的批判)を通して『部落学序説』の筆者として対応することにしました。その部落史研究会の方々は、同じ主張を彼らがしたときどのような事態に遭遇するのか、『部落学序説』の著者である吉田向学の上にふりかかる<炎上>を先取りしようとしたようです。 同和教育・学校教育の現場の現実はその程度でしかない、という失望は、それまで同和教育・解放教育の現場で学校教師によって繰り返されてきた差別事件にするどく対応・糾弾してきた部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々にとっては、 Et tu, Brute? という思いだったのでしょう。
そのときのやり取りを公開するのは、English Writingで『Historical Truth of Discriminated Burakumin』や『A Pastor's Encounter with Burakumin』を執筆し、その後『部落学序説』を書き直し『部落学』をあらたに執筆したあと・・・。 今の予定では20年後、私が95歳になったとき・・・。 それまで私が生きているかどうどうかは、私ではなく私が信じている神さま次第・・・。
この冬の知的作業は観聖寺文書の再判読・・・
今日は1日, これまで再読した観聖寺文書を再検証して, MSwordで活字化, A4判19枚にプリントアウトして, 隣村の郵便局からゆうパックで送りました. 12月20日から来年3月20日までの3ヶ月間, 晴耕雨読ならぬ晴れた日は除雪作業, 雪の降る日は読書三昧...
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猪苗代から戻ると、筆者と妻、すぐ着替えて農作業をはじめました。 妻は、段々畑の梅の木のある畑に作付けしたキュウリとインゲンの支柱のネット張り・・・。筆者は、棚田のひめのもちとはえぬきの田の草取り・・・。午後1:30~4:00、市販の農具を改造してつくった <水田熊手>型草取り器を...
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今朝、読んだ『英訳聖書』(NSRV)のことば・・・。 I have also seen this example of wisdom under the sun, and it seemed great to me. There was a little city with fe...