『田舎牧師の日記』の2007年7月30日の書き込み・・・。 『田舎牧師の日記』の記事の中には、Blogger上で再掲した方がよい文章もすくなからずありそうです。
<7月30日、就寝したのは、参院選の結果を確認してから・・・。
そして、朝、再びテレビのスイッチを入れたとき、小田実氏逝去のニュースが流されていました。 筆者は昔、一度だけ、小田実氏から声をかけてもらったことがあります。
神学校を卒業して、最初の任地、日本基督教団神奈川教区の伝道所の伝道師をしていたときです。 神奈川教区の開拓伝道であったため、その教職は、神奈川教区の宣教方針にそった行動をとることが求められます。
そんなある日、戦後はじめて、日本の自衛艦が日米合同軍事演習のためハワイ島沖へ出港するということがあり、日本基督教団神奈川教区も常置委員会名で抗議行動をとることを決めました。 そして、同軍事演習に反対する、その他の政治団体や運動団体と一緒に防衛庁に出向いていって抗議声明を手渡す・・・、というものでした。 当初、その抗議声明を、神奈川教区の牧師5、6名と一緒に手渡すということでした。 神奈川教区の教職の中で最年少(といっても33歳・・・)の筆者は、ベテランの教職のあとについていけばいいと思っていたのですが、当日になって、一人二人と都合が悪くなって、結局筆者以外の誰も参加することができなくなったので、「あとはよろしく頼む・・・」、ということでした。
他の政治団体や運動団体との集合場所にでかけて行った筆者は、はじめて、そのリーダーが、有名な小田実という人物であるということを知らされたのです。右も左も分からない筆者は、小田実というリーダーのあとに従って、防衛庁に抗議声明を渡しに行きました。
そして、そのあと、防衛庁のすぐ近くの公園で、「集会」が開かれたのですが、小田実氏から、「君は、日本基督教団の神奈川教区の牧師ですね・・・」と念を押されて、それで、そこにいる人々を前に、「連帯のあいさつ」をしました。 あいさつを済ませたあと、小田実氏が筆者の耳元でささやくのです。「もしかして、君、自分の名前と所属について話をするとき、実名を使用したの・・・?」 筆者は、「ええ、そうですが・・・」と、急に不安を覚えながら答えたのですが、「君、何も教えてもらっていないの?こういうところで連帯のあいさつをするときは、絶対に実名を使用してはだめです。これからは、公安に尾行されることになるから、用心したほうがいい・・・」。
無学歴・無資格の筆者は、団塊の世代に属しているにもかかわらず、万博問題以降の大学紛争とは無縁の存在です。右翼が何を意味し、左翼が何を意味するのかもほとんど理解してはいませんでしたし、中核派と革マル派の違いについても明確な認識の持ち合わせはなく、共産党と新左翼の確執すら漠然とした世界の中にありました。
どちらかいいますと、聖書信仰にのみ生きてきた筆者にとって、その時の衝撃は非常に大きなものがありました。「右からも左からも切り捨てられ、利用されているに過ぎない・・・」。
そのとき、はじめて、小田実氏から、市民運動に参加するときの基本的な心得を教えていだだきました。
そして、筆者は、そのとき、心に決めたのです。自分の全存在をかけて、今後も、実名で、正しいと思ったことを発言・実行していく・・・、と。 そのあと、日本基督教団西中国教区の小教会に赴任してきてからというもの、無学歴・無資格の筆者は、右からも左からも疎外され、利用されるだけ・・・、の存在として今日に至っていますが、あるときから、「利用される・・・」ことを極度に警戒するようになり、党利党略に関係なく、福音派・社会派、学閥・派閥に関係なく、自ら、調べて、正しいと判断したことのみ主張していく、「一言居士」的生き方をまっとうしてきました。
そのきっかけになったのは、小田実氏の、多分、何も知らされないで戦場へ送り出されてきた一兵卒に対する「憐憫の情」に基づくアドバイスではなかったかと思っています。 そのとき、思ったのです。本当の市民運動家は、その市民運動に参加するひとりひとりに心を配ることができる人であると・・・。どのような理由と事情があるにせよ、「ひと」を使い捨てにする集団・団体には、市民運動を語る資格はない・・・、と思って久しくなりますが、今朝、小田実氏の悲報に接して、その時の出会いを思い出しました。
今朝、教会のミニ菜園の野菜を収穫しながら、ほんとうの市民運動家である小田実氏のことをあれこれと追想しておりました。(投稿日 2007/07/30)>
2023/09/09
忘れてはならない『田舎牧師の日記』のひとこま・・・
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