今日の夜、 共有ハードディスクから『田舎牧師の日記』をコピーしました。 テキストファイルではなく、HTML形式で保存されたものなので、Windows11roの Microsoft Edgeで閲覧可能です。
2008年7月15日の書き込みにこのような言葉がありました。
<昨日、日本基督教団阿佐ヶ谷東教会の長老の日高姉から、長~いお便りをいただきました。 その一節に、内村鑑三の『聖書之研究』に収録されている、「読むべきもの、学ぶべきもの、為すべきこと」という文章が添付されていました。 その文章というのは、
< 読むべきものは聖書である、
小説ではない、政論ではない、然り、神学ではない、
聖書其物である、
神の言にして我が霊魂の声なる聖書である、
聖書は最も興味深き最も解し易き書である、
世々の磐より流れ出づる玉の如き清水である、
之を哲学的に解釈せんとせず、之を教会の書として読まず、
神が直接に霊魂に告げ給ふ言として読んで、
聖書は其最も明瞭なる意味を我等に供給する、
我等はすべての物を読むのを止めても、然り、時々すべての物を読むを止めて、
一意専心聖書を読んで之をして我等の霊魂を活き復らしむべきである。
学ぶべきものは天然である、
人の編みし法律ではない、其作りし制度ではない、
社会の習慣ではない、
教会の教条ではない、
有りの儘の天然である、
山である、河である、樹である、草である、虫である、魚である、禽である、獣である、
是れ皆な直接に神より出で来りしものである、
天然は唯天然ではない、神の意志である、其意匠である、
其中に最も深い真理は含まれてある、
天然を知らずして何事をも知ることはできない、
天然は智識の「いろは」である、道徳の原理である、政治の基礎である、
天然を学ぶは道楽ではない、義務である、天然教育の欠乏は教育上最大の欠乏である。
為すべき事は労働である、
口を以てする伝道ではない、
筆を以てする著述ではない、
策略を以てする政治ではない、
手と足とを以てする労働である、労働に由らずして智識以上の智識なる常識は得られない、
労働は労働としてのみ尊いのではない、
信仰獲得井に維持の途として、常識養成の方法として、愛心喚起の手段として又最も尊いのである、
キリストに於ける信仰は文に頼て維持することは出来ない、
語るを知て働くを知らざる者は大抵は遠からずしてキリストを棄る者である、
福音は神学ではない、労働である、
聖書の最も尊き注解は神学校より来る者にあらずして、
田圃より、又は工場より、又は台所より来る者である、
労働なくして身は飢え、智識は衰へ、霊魂は腐る、
労働を賤む者は生命を棄る者である、
労働是れ生命と云ふも決して過言ではない。
夜、日高姉と長~い電話をしました。東京と山口の間といっても、今はインターネット電話を使用しますので、電話料金を気にしないで話をすることができます。日高姉と筆者とは、母と息子の年齢差があります。いつも、母に対する敬意を持って、そのお話をお伺いしていますが、内村鑑三の言葉を引用されながら、日高姉、瓦礫とバラスだらけの教会の庭を開墾して、花や野菜を自然農法で栽培しているとこと、決して控えめに表現する必要はありません、確信をもって表現したら・・・、と言われます。
人類のために尽くそうとして世に交際を求める必要は一つもない。
私たちは単に独りであっても人類のために尽くすことができる。
人は何人も人類の一部分である。
そのために己に尽くして人類のために尽くすことができる。
独り真理を発見することができる、独り神と接することができる、独り霊性をみがいて完全の域に向かって進むことができる。
私たちは人類の好い標本として己を世に提供することができる。
単独は決して無為の境遇ではない(内村鑑三)。
阿佐ヶ谷東教会長老の日高姉と内村鑑三の言葉が胸にしみてきた昨夜でした。>
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