2023/09/09

ゲーテに関する2題・・・

    『田舎牧師の日記』から・・・。

    <『他人をほめる人、けなす人』を読んで・・・(2006年07月27日)

    『他人をほめる人、けなす人』の最初に登場してくるのは、「楽観的な人」。最後に登場してくるのは、自分の過ちに気づく人」。 その最後で、イタリアの現代の社会学者・アルベローニは、ユダヤ人差別について取り上げます。第二次世界対戦中、多くの知識人は、「その差別がそんなに深刻であるとはつゆも知りませんでした・・・」(引用文ではありません)と弁明します。アルベローニは、それを「悪魔との協定」(ゲーテ『ファウスト』)であるといいます。悪魔に魂を売ったものは、差別に目をふさぎ、差別はない、差別があることは知らない・・・といいます。 「無知」は「無罪」のしるしではなく、「有罪」の有力なしるしでもあるのです。
    「差別があったことは知らない」という「無知」主義の隠された意図、「はじめは、そのことを自覚しているが、やがてそのとりことなり、そこから離脱できなくなる。」とアルベローニはいいます。なぜなら、彼等は、「知っていたとしても、それを正当化しただろうから・・・」。 アルベローニは、「悪の道は容易なのである。」という言葉でその書を終えています。>


    <悪魔の視座 (2006年05月01日)

    神の言葉を語っている・・・と信じきっている牧師ほど、神の言葉からほど遠い説教をしているものは外にありません。「説教」は、最初から最後まで人間の言葉、神の言葉などではないのです。もし、説教が神の言葉になるとしたら、それは、主なる神が神の言葉としてひきあげてくださるときのみです。「神の言葉を語れ」といわれて、語ることができるような言葉は「神の言葉」ではありません。
    新約聖書では、神からもっとも遠い存在といわれている「悪魔(サタン)」ですら、「神の言葉」を語っているではありませんか。「悪魔」とは、ゲーテの『ファウスト』によると、「常に否定する精神です」。差別問題についていいますと、差別問題に取り組んでいないときを捉えて「あなたは差別問題と取り組むべきである」と批判し、差別問題を取り組んでいるときは「あなたは差別問題と取り組むべきでない」と批判する、常に、反語法的なアドバイスしかできないひとのことです。
    ゲーテは、「悪魔」の特質として、「悪魔」の「人間」を見る目をとりあげています。ゲーテの『ファウスト』の中では「悪魔」は、「苦しんで暮らしている人間を見ると、かわいそうになります。」と語ります。憐れみと同情、それは「悪魔」の精神でもあるのです。 「悪魔」と戦うファウストは、「悪魔」が発見したがらないものを発見します。「この貧しさの中になんという豊かさが!」。「貧しさ」の中に、憐れみと同情を持ち込むことではなく、「貧しさ」の中に「豊かさ」を発見すること・・・、それこそ人間の智恵の輝きです。

    筆者の『部落学序説』は、悪魔の視座からではなく、悪魔と戦うファウストの視座から執筆されているのです。



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