朝, 放送大学の "認知症と生きる" という番組を, 妻と一緒に見ていました.
認知症の高齢者の "居場所"・・・. 妻のふるさと・湖南町赤津村は, 認知症の高齢者の居場所には事欠かないようです. 生まれ育った場所での人生の晩年ですから, それなりの "居場所" があります. 湖南の赤津村の農家は, 所有している田畑山林の広さによって階層付けされているようですから, その階層内での "居場所" を求める限り, "居場所" は確保されます. 階層外での "居場所" を確保するのはかなり難しそうです.
私は, "ここらのもん" ではなく "よそもん" ですから, 湖南町や赤津村の社会的な階層と, 誰がその階層にぞくするのか, 何も知りません.
何も知らないで, 妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農後, 誘われるままに, "湖南史談会" に参加しましたが,あとでその社会的階層に直面させられることになりました. "湖南史談会は, ここらの金持ちの農家様の老人会だ! 貧乏農家のおめえがのこのこ出てくるとろこではねえ!" と不満をぶつけられることに・・・. 私は,パソコンを使って事務処理を引き受けて居たのですが, "吉田がしていることぐらい, おらにだってできる!" という人が現れて, 私はその方にすべてを譲って湖南史談会から撤退することにしました. "ここらのもん" であるその方は今日まで十分にその職責を果たしておられるようで, 湖南史談会会員を返上したのは適切な判断でした. "居場所" を与えられても "居心地" が悪い "居場所" は, あってなきが如し. "居場所" がなくても "居心地" のいい状態もあります. よそもんの私のとって, "ここらのもん" の "居心地" よ良さは良さではなく正反対の悪さに直結します.
"We have no lasting city, but we are looking for the city that is to come."
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