2021年11月に, Gooブログから Blogger に, "部落学序説" を移行して以来, コメントは一切なし・・・.
Googleアカウントは, 無料で, 誰でも使用することができますので, その気になれば, 誰でも,私のブログにコメントすることができます. しかし, 2021年11月以降, 一切コメントなし・・・.
以前, ある読者の方が, "無学歴・無資格 (Academic Outsider)を主張する吉田向学さんの記事に対して,安易にコメント,批判をしてはいけない. 逆批判されて, 丸裸にされるぞ " と書き込んでいましたが, コメントした人がネット上で公開した発言や文章を調べ,"徹底的に解析され逆に批判されるぞ" (隠し持っている差別体質が明らかにされるぞ・・・) , という意味のようでしたが, ゲーテの "ファウスト" の言葉の中に, "悪魔も馬鹿は相手にしない. 馬鹿を相手にすると悪魔もひどいめにあう." というのがあります. "馬鹿" (無学歴・無資格) を相手にすると "悪魔" もひどいめにあう・・・. 最近の "悪魔" は "悪魔" であることを自覚することなく, 逆に, 正義を主張する "神" のごとく振る舞い,自分の説は絶対的に正しいと主張する・・・. 小国ウクライナに侵略戦争をしかけた大国ロシアの大統領プーチンのように・・・.
"部落学序説" の一節につぎのようなことばを書き込んでいました.
"学歴も資格もない筆者の書く論文は, "論文"という名に値しない, 小・中・高生の "作文" でしかないということは, 十分自覚しています. しかし, "真剣に言いたいと思うことがあれば, ことばを追いまわす必要があろうか"("ファウスト")という, ゲーテの言葉に促されて, "論文" として執筆しています. 今回, 自分で自分の書いた "部落学序説" を読んでみて思うのですが, 自分自身にも訴えてくるものがあるので, "部落学序説" の論文の構造や, 個々の文書については見直す必要がないと思わされました. ブログ上で "部落学序説" を読み直しはじめたとき, 近くの書店(周南団地・宮脇書店)で, 哲学書のコーナーに目を通しているとき, 野矢茂樹著 "他者の声・実在の声" を見つけました. 19のエッセイを集めたものですが, 帯に "語りきれぬものは, 語り続けねばならない" とあり, その言葉に惹かれて, "他者の声・実在の声" を買い求めました. 本文のなかにこのような言葉がありました. "論理空間の変化を語ろうとすることには, こうした変化の語りがもつ一般的な論点に加えて, 語ることによってのみその語りの位置する論理空間が示されうるという事情が働く. 私はまず語り, 語ることにおいてその論理空間を示し, さらにまた新たに語り, そうすることにおいて新たな論理空間を示す. そうやって示し続けることにおいて, 時の流れの中で, 論理空間の変化を, すなわち他者の存在を示すのである. ここにおいて, 沈黙は何も示しはしない. それゆえ私はこう言おう. 語りきれぬものは, 語り続けねばならない". "部落学序説" 執筆中に, 筆者のこころの奥深く, 臓腑の底にまで, しみてくる言葉でした. "部落差別" という, "語りえぬもの" を前にして, 多くの人は何も語ることなく, その前を通り過ぎて行きます. "部落差別" について, 一切触れぬことが, 識者の常識であり, 良識であると考えます. あえて "語りえぬもの" を語ろうとすると, 様々な障碍が姿を現してきます.
私は, 聖書の神のことばに耳を傾けても,悪魔と対話することはありません.
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