哲学と思想の違いは、どこにあるのか・・・。
筆者、高校生のとき3年間600冊の本を読みました。1年生のとき300冊、2年生のとき200冊、3年生のとき100冊・・・。高校の図書室と、下校するときの帰り道にあった公民館の図書室の蔵書が、筆者の読書源でした。公民館の図書室の司書の方、筆者に、<あなた、彼女いるの? いないの? だったら、いいひと紹介してあげましょうか。あなたと同学年の女の子・・・。その子も読書が好きで、山岡壮八の『徳川家康』や吉川英治の長編を読破しているのよ>と話しかけてこられたことがありますが、そのとき、筆者は、哲学やキリスト教に関する本ばかりを読んでいましたので、公民館の司書の方のすすめを受け入れることはありませんでした。そのころ、筆者は、<哲学と思想の違いはどこにあるのか? 人生にとってどちらが自分にとって意味があるのか?>などと考えていましたから・・・。
筆者、よく知られた、<分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな>という歌はまちがっていると思いました。<同じ高嶺の月>は、別に山に登らずとも誰にでも見える、それなのになぜあえて登らなければならいないのか・・・と考えていました。筆者にとっては、<分け登る麓の道の多ければ同じ高嶺も様々に見ゆ>というのが真実に近いと思っていました。登山をしていますと、その山の頂は、見えたり、見えなかったりします。しかも、どの登山道を選ぶかによって、登山道から見上げえる山は様々な姿に見えてきます。東・西・南・北、その登山道からみるその山の頂は、決して同じではないのです。
筆者は、哲学は、自分の選んだ登山道をのぼりながら、そこから見えるその山のいただきを見つめることだと思っていました。しかし、思想は、数多くある登山道の価値を認めず、その先人の開拓した登山道だけを真正の登山道と断定し、その他の登山道を否定する傾向を持っていると思っていました。そこでは、自分で調べて、地図と磁石を手に登山する自由はなく、先人の開拓した道のあとをたどることのみが正義とされる・・・。哲学と思想、そのどちらが筆者に向いているのか・・・、いろいろな哲学書を読み考えていくなかで、筆者は、<思想>ではなく<哲学>の道を選択することにしました。
<分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな>という歌は、宗教者によって好まれる歌ですが、どの宗教であれ、結局は同じ真実にたどりつくことができるという、すべての宗教を相対化、無化する考え方です。聖書を読んで知る真実と、仏典を読んで悟ることができる真実と、いろいろなイデオロギーで主張される真実と、同じものであるとは、思えなかったのです。
部落問題、部落史研究についても、同じことがいえますね。<分け登る麓の道の多ければ同じ高嶺も様々に見ゆ>・・・。その自由を認めない、しかも、左翼主導の部落史研究や部落解放運動の枠から外れているという理由で、<様々に見ゆ>る人々を<差別者>として排除・疎外するのはもってのほか・・・。法的公正を期するはずの法務省が、左翼思想・左翼思想家・左翼運動家と連動して、日本国憲法で保障された言論の自由を抑圧するのももってのほか・・・。
2022/10/30
哲学と思想の違い・・・
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