2024/01/11

今朝, ”英訳聖書” (NEB) を読みながら, 恐ろしくなる・・・

    今朝, ”英訳聖書” (NEB) を通読を通読していたとき, 私のこれまでの歩みを振り返りながら急に恐ろしさを感じさせられました. 

    日本基督教団の牧師になるために, 鶴川学院農村伝道神学校に入ったとき, その時の校長は, 日本基督教団の元総幹事の牧師・・・. 日本基督教団の元総幹事というは, 日本基督教団の総会議長とともに、日本基督教団の実力者のひとり・・・. 彼のおとうさんは, 東京神学大学の初代学長出会った, 有名な神学者・・・. 

    そんな彼から, 入学後, 校長室に呼び出されて, ”無学歴・無資格で, どこの馬の骨かわからないものはこの神学校に受け入れたくなかった。鶴川学院の理事長の推薦書を持ってきたから, 止むを得なく受け入れざるを得なかった. 無学歴・無資格の君は, 私の弟子になることはできないからそのつもりでいなさい” と言い渡されました. 

    最初の年の夏休み, 日本基督教団阿佐ヶ谷東教会の主日礼拝に2回続けて出席しますと, その長老のひとりから, ”君, 2回続けてこの教会の礼拝に出席したのだから, この教会に転入しなさい” と言われ, 私は, Sweden Covenant Missionの教会から日本基督教団阿佐ヶ谷東教会に転入することが決まりました. その長老の方の話では, ”君の転入会と受洗した幼稚園教師の歓迎会は, 秋にこの教会に赴任してくる牧師の歓迎会とあわせて行うことにした” ということでした. 

    そして, 私が阿佐ヶ谷東教会に転入したあとにやってきた牧師が, なんと任期途中で農村伝道神学校校長を辞任した, 元日本基督教団の元総幹事の方・・・. その牧師夫妻に, 牧師館に呼び出された私は, 彼らから通告を受けました. ”無学歴・無資格, どこの馬の骨かわからないものは私たちの弟子になることは出来ない. 君を神学生扱いすることはないから, そのつもりでいなさい. 教会があなたに神学生として奨学金を出すといっても, 辞退しなさい. 教会があなたに奨学金を出す分, 私たちの取り分が少なくなりますから・・・” ということでした. 私は, 承諾しましたが, しばらくして, 阿佐ヶ谷東教会の聖書研究祈祷会に出席されていた信徒の方々が, 教会としてではなく聖書研究祈祷会として私に書籍代をカンパすることを決められたとのこと・・・. そのとき, 牧師夫妻は, ”せっかくですから, 1回だけ受け取りなさい. 2回目からは, 辞退しなさい. 聖書研究祈祷会に出ている方々には私たちの方から説明しておくから・・・” ということで, その牧師の支持通りにしました. 阿佐ヶ谷東教会に教会員として転入して神学生としての4年間, 私は阿佐ヶ谷東教会から奨学金を受けることはありませんでした. 最初の5,000円だけ・・・. 私は, それでバルトの邦訳の説教集を購入しました. 

    神学校最終学年の伝道実習の教会は, 日本基督教団阿佐ヶ谷東教会でした. 当時の農村伝道神学校の校長に, 阿佐ヶ谷東教会の元農村伝道神学校の校長から, 夏期伝道実習に私を派遣するように強い要請があったとかで・・・. 当時の農村伝道神学校の校長は, ”元総幹事の牧師から指導を受けるのはいいことだ” とその要請を受け入れ, 私を夏期伝道実習のために阿佐ヶ谷東教会に送り込みました. しかし, 牧師夫妻から指導を受けることはほとんどなく, 彼らは, 夏の間, 保養・休養のために信州に出かけて, 私はその留守番役でした. 夏期伝道実習の間, 私を, 日本基督教団の牧師になるべく指導してくださったのは, 阿佐ヶ谷東教会の長老や信徒の方々でした. 

    神学校の卒業式のとき, 当時の農村伝道神学校の校長は, ”今日の卒業式のとき, 卒業する吉田君のために, 阿佐ヶ谷東教会の教会員の方々が出席されています. 神学生として受け入れてくださった教会の教会員がその卒業式に出席されるのは, この農村伝道神学校でははじめての出来事です. 吉田君が, 神学生として過ごした阿佐ヶ谷東教会での4年間は, 阿佐ヶ谷東教会の方々からいかに愛されて来たかのしるしだと思います・・・” と後輩の神学生に, ”あなた方も, 教会に愛される神学生になりなさい” と訓示していました. 

    神学校卒業のとき, 私の任地は, 日本基督教団神奈川教区の開拓伝道のプレハブのちいさな教会に決まりました. 阿佐ヶ谷東教会の牧師夫妻に挨拶に行ったとき, その牧師夫妻は, こんなことを私に語りかけて来られました. ”あなたは, 神が守ってくださる. あなたは, あなたの隣人である私たちを守りなさい”, と. 理解できそうで理解できない言葉の意味を詮索することなく, 私は, 任地の教会に向かいました. そのとき, 神奈川教区の開拓伝道所で教会役員をしていた2人が, 日本基督教団阿佐ヶ谷東教会の別帳会員であることを知らされました. そして彼らは, ”無学歴・無資格, どこの馬のほねかわからない吉田牧師は, この教会の牧師に相応しくない. 即刻, 高学歴・高資格, キリスト教界の名門の出である, 元教団総幹事の阿佐ヶ谷東教会の牧師にこの教会を譲るべきだ. 彼は, この教会に赴任すると同時に, 阿佐ヶ谷東教会の別帳会員を全員, この教会に転籍させて、数年でこの教会を大教会にしてくれる・・・” と言って, 私が牧師として赴任すると同時に, 牧師である私の排斥運動を始めたのです. 阿佐ヶ谷東教会牧師の ”あなたは, 神が守ってくださる. あなたは, あなたの隣人である私たちを守りなさい”,という意味の言葉をそのとき理解することができました. 

    東京神学大学の機動隊導入を決めた学長であった元阿佐ヶ谷東教会の牧師を支持して阿佐ヶ谷東教会を離れた人々が, ”吉田牧師は過激派の牧師だ. 横浜の高級住宅地の教会の牧師としてふさわしくない. 吉田牧師を辞任させ、日本基督教団の元総幹事の阿佐ヶ谷東教会の牧師を招聘しよう” と画策し, やがてそれは, 神奈川教区磯子教会出身の教会役員や教会員にも波及し, 教会会計を担当していた磯子教会出身の役員は, 神奈川教区の開拓伝道所の会計を, 開拓伝道所の預金口座ではなく, 自分の個人口座で管理していました. 会計監査のとき, そのことを指摘され, また個人口座の中から牧師謝儀として引き出された額の日付が支給日からかなり遅れていることを問われ, ”過激派の吉田牧師を支えたくなかった. ” と供述したとか・・・. 神奈川教区内藤議長を交えて, いろいろ対策を協議しているとき, 内藤議長は, ”神奈川教区の開拓伝道としては, あるまじき事態だ. 神奈川教区の開拓伝道は中止してもいい・・・” と話していましたが,  ”無学歴・無資格, どこの馬のほねかわからない, 農村伝道神学校出身の私でも, 神奈川教区の開拓伝道所には, 他教会からの転籍が相次ぎ, 受洗者も出てくる中で, 私は, 内藤議長に, ”私を, 教会役員に対する管理不行き届きを理由に私を解任して, 私の後任に, 日本基督教団元総幹事の阿佐ヶ谷東教会の牧師ではなく, 高学歴・高資格のキリスト教団の名門の出である他の牧師を招聘してください” と言って, 身を引くことになりました. 後任として, 私が選択したのは, 農村伝道神学校の先輩で, 神奈川教区で開拓伝道をされている牧師のお姉さんの御主人・・・. 

    私が神奈川教区の開拓伝道所を辞任することが決まったとき, どこでどう判断されたのやら、阿佐ヶ谷東教会の牧師は, 任期途中で, 急遽, 阿佐ヶ谷東教会を辞任することを決めたそうです.  ”なぜ? 今?” と, 阿佐ヶ谷東教会の役員会も信徒も戸惑ったようですが, 私は, 次の年, 日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師に赴任・・・. 私の次の任地は, 日本基督教団元総幹事である阿佐ヶ谷東教会の牧師の意向が働いていたようです. 私が赴任した教会は, 元日本基督教団総幹事が西中国教区の幹事をしていたときに伝道所開設式の司式をした阿佐ヶ谷東教会の牧師でした. その教会の前任者は自害・・・. 阿佐ヶ谷東教会の牧師は, ”吉田牧師は, 一度も自殺をしたいと思ったことはないそうだ. それは, 牧師を続けるうえでよくないことだ. 吉田牧師を自殺したいと思うほど試練を与えてやれ. それは吉田牧師に対する牧会的配慮だ!” と西中国教区や山口東分区の息のかかった牧師・信徒に語ったため, 彼らは, 一斉に, 元日本基督教団総幹事の支持の元、私に対するさまざまな嫌がらせ, 排除・疎外, 現代的な表現を使えば, 徹底的なパワーハラスメントの対象にしてきたのでした. 西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員にされ, ”山口の被差別部落に入って具体的に取り組め” と指示がだされたのもその一環です. 

    山口東分区の分区長は, ”自殺する牧師の方が可愛い. どんなに排除・疎外しても, 馬耳東風で聞き流し, 人の嫌がる部落差別問題との取り組みを押し付けても, 平然と彼らと交わるお前は, 始末に負えない!” と言い、広島の被差別部落の中にある私設隣保館・広島社会館の館長は, ”まだ, わからないのか? お前は, 教団の指導者である元総幹事から切り捨てられ見捨てられてんだよ. お前には, 明日はない. 他の牧師は, 部落差別問題と取り組んで困難に陥っているお前を助けてやれと言ってくるが, 教団の指導者である元総幹事から排除されているお前をどうしておれが助けてやらねばならねんだ?” と、彼も私に引導を渡していました. 

    そのような状況の中から, 私は, 日本基督教団の牧師として, 山口の地で, 部落差別問題と取り組むようになっていったのです. 山口の地での私の日々は, いわゆる ”バビロン捕囚” の日々・・・. 日本基督教団、西中国教区, 農村伝道神学校から見捨てられ, ただ, 私を伝道者の道へ導いて下さった主なる神さまとの ”召命” を信じて, 山口の地での30年の歳月を過ぎ越して行きました. ”主イエスさま、もし, イエスさまが現代社会を歩いておられるとしたら, どこを歩いておられますか? 私はイエスさまのみあしのあとを歩んで行きたいと思います. 私があゆむべき道を教えてください・・・”, それが私の日々の祈りでした. 主なる神さまは, 私の祈りを聞いて下さり、私の目に, 被差別部落の人々のほんとうの姿が見えるようになったのです.  最も高いところに立つ, 日本基督教団のトップの指導者と, 最も低いところで呻吟し苦闘する, 無学歴・無資格の私との不幸な出会いの中にも, 主イエスさまは共にいて下さったのです

    2011年の東日本大震災と原発事故による放射能汚染が深刻化する中, 2012年1月1日に東海村原子力発電所で仕事をしたことのある, 妻の実家のおとうさんはショックを受けて, ”ここが汚染されていたら, もうここに帰って来なくていいから. 被ばくしたかもしれないと不安な日々を過ごすのはおらひとりで十分だ・・・” と寂しそうに話していましたが, 2012年1月1日に心臓発作で他界しました. 妻の実家のおかあさんも認知症になりかけていましたので2013年4月1日, 日本基督教団の隠退牧師になり, キリスト教会の存在しない奥羽山脈のふところに抱かれた湖南に帰郷・帰農しました. 山口の地を離れるとき, 教会役員会の要請で宗教法人を解散, 教会の財産は包括団体日本基督教団に献げました. 解散手続きにかかった諸費用は妻と私の個人負担, 退職金も放棄しました. 日通の引っ越し業者は, ”こんな引っ越しははじめて. 運ぶ荷物は, 本箱だけじゃないですか! 家具らしい家具はひとつもない!” と驚いておられました. 日本基督教団の宗教法人の担当者の話では, 教会の不動産を売却したところ, 経費を差し引いて1,800万円になったとか・・・. 教会役員会の要望で, それらは, 東日本大震災の被災にあった日本基督教団の東北教区・奥羽教区の諸教会の再建の一部にささげられることになりました. 

    今朝, ”英訳聖書” (NEB) を読みながら, そのことを思い出し, 中国山地の大山の鋭く尖った尾根を歩くときのような恐ろしさを感じました. 右に傾いても, 左に傾いても急な崖を真っ逆さまに落ちていく可能性がある中で, 無事登山を終えることができたことに感謝すると共に, その恐ろしさを改めて感じさせられていました. 

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