神学校をでたあと、筆者の最初に任地は、日本基督教団神奈川教区の開拓伝道でした。伝道師として准允を受けるとき、神奈川教区で所信表明を求められましたが、そのとき、筆者は、<私は無学歴・無資格です。ほかの牧師先生方のように高学歴・高資格はもちあわせていません。ほかの牧師先生を学者・研究者・技術者だとしますと、私は無学歴・無資格の職人でしかありません。みことばの職人として、聖書の釈義と説教を磨き、遣わされた教会で説教と牧会にあたっていきたいと思います・・・>と話をしますと、総会の議場からヤジが飛んできました。<さすが無学歴、いうことが違う!> 西中国教区で按手を受けるとき、筆者、両膝をひざまづいて受けましたが、あとで、他の牧師から嘲笑されることになりました。なんでも、<牧師たるもの、西洋のナイトと同じで按手を受けるときは片膝をついて受けるものだ。神学校で按手礼の受け方を何も教えられてこなかったようだ>と・・・。彼らの解釈によると、神の前で両膝をつくのは百姓身分のすることだとか・・・。
2013年、隠退牧師になり、現役牧師から遠ざかることになり<みことばの職人>を返上して<みことばの百姓>になっています。<みことばの職人>だの<みことばの百姓>だの、そんな言葉を使用するのは、筆者だけのようです。<職人>も<百姓>も、筆者が尊敬するひとたちです。尊敬する人々から学んだことを、牧師としての生き方に活かすのは当然といえば当然です。
<聖書は神学の本ではない。人が生きるための本である。> 筆者、16歳のときに、聖書を読んで、聖書の神を自分の神として生きることを決断、17歳のとき洗礼を受け、19歳のとき、読んだ信仰書の中に、島村亀鶴先生の『信仰生活のいろは』があります。その本の中に出てきたことばです。それから10年後、筆者は、島村亀鶴先生からいただいた推薦状をもって、日本基督教団の牧師になるために農村伝道神学校に入りました。そのとき、島村亀鶴先生から、島村流聖書の読み方、釈義の仕方、説教のつくり方を伝授されました。その基本はやはり、<聖書は神学の本ではない。人が生きるための本である。>でありました。<深い思想、正しい神学、これは大切である。しかし、これを学問として知るよりも聖書のことばを実行しつつ、体験していくことがさらに大切である>。聖書を読むのも、釈義をするのも、説教をするのも、思想や神学のためではない。聖書の神を神として信じて共に生きるためである・・・。
筆者が入学した当時の農村伝道神学校の校長や教授の中には、筆者が農村伝道神学校の神学生になることで、他の神学生を躓かせるのではないかと心配しておられました。彼らにとって、筆者は、異質な信仰の持ち主であったようです。
2021/12/12
<みことばの職人>から<みことばの百姓>へ・・・
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