2022/01/09

観聖寺の聖は、聖徳太子の聖であると同時に聖宝の聖・・・

筆者の祖父・吉田永學は、信州栗田村の真言宗・観聖寺の長男系列直系の末裔・・・。『信州栗田村観聖寺縁起』の内容を検証していて、観聖寺の<観聖>は<聖を観る>という意味であり、その聖は、聖徳太子の聖であると同時に聖宝の聖であると思いました。

観聖寺縁起によると、聖徳太子は日本仏教の開祖・・・、聖宝は真言宗當山派の開祖・・・。長野の吉田さんが継承しておられる観聖寺の宗教遺産の中には、聖徳太子像と聖宝像が含まれていますが、栗田村太子堂でもある観聖寺の本尊は、聖徳太子・・・。聖宝の、既存仏教に対する批判は、<宗教改革者>の批判に相当するものがあります。仏教の救済を、知識階級・上中流階級の救済に限定せず、民衆・大衆に及ぼすべく、宗教改革を断行したその文言が、観聖寺縁起の中にちりばめられています。

聖徳太子も聖宝も、その生涯の言葉と振る舞いは<伝説>によって脚色されていますので、その<伝説>の背後にある<歴史的核>にたどりつくことは容易ではありませんが、聖徳太子と真言密教とのかかわりで<日猶同祖論>が関与してきますと、この二つの聖に聖書の聖がくわわり、あらたな意味が付加されることになります。真言宗観聖寺が創立された寛永14年(1637)は、島原の乱が起きた年・・・。日本基督教団の隠退牧師である筆者は、日猶同祖論とは関係なく、真言宗観聖寺が明治政府の宗教政策によって廃寺に追い込まれた背景には、日本と欧米諸国との外交における、明治政府に対する欧米諸国の宗教容認の要請が大きく影響したと思っています。

ひとつの歴史の把握は、そのひとの視点・視角・視座によって大きく異なってきます。党利党略による特定の歴史の強要に服することができない、歴史の真実に遭遇すれば、なおさら・・・。

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