国木田独歩の小説に出てくる言葉です。確か、高校の現代国語の教科書の中に出てきた言葉であると記憶しています。
高校生のとき、筆者は、教科書の文章は、すべて原典を通読することにしていましたから、この国木田独歩の小説も通読していたのでしょう。今は、すっかりその内容を忘れていますが・・・。
日本基督教団西中国教区の山口のちいさな教会の牧師をしていたとき、妻とよく、気分転換にドライブしましたが、上関の長島の中之浦や白井田にドライブした帰り、よく、国木田独歩の生家(誕生の地)の前を通りました。一度も、くるまをとめたことはありませんが、その前を通るつど、国木田独歩の<忘れ得ぬ人は必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず>という小説の中の言葉を思い出していました。
<親とか子とかまたは朋友知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れてかなうまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君にもあるだろう。>
人生を振り返ったとき、<忘れ得ぬ人>が次第に増えていくのは、その人生が人間関係にあまり恵まれていなかったことのしるしかもしれません。それでも、なにか、人間としての真実な生き方を追い求めていくときに、意図せず出会った出会い・・・。それが、忘れ得ぬ人・・・。
今年は、例年になく、知人がなくなりました。人生のひとくぎりの死のできごとと共に、忘れられてしまうことになる人もいれば、死してなお、筆者の思い出や記憶の中に生き続ける人もいます。認知症になると、記憶がひとつひとつなくなっていって、最後は自分自身さえ認知できない<無我>の状態に追い込まれるのでしょうが・・・。
中之浦の漁師さんや、白井田港の神主さんや漁師さんとの短い、単なる会話・・・、忘れてしまっても不思議ではないのに、なぜか、忘れることができません。やがてみんな<無我>の境地に追いやられ、生きていたことも悠久の波の音にかき消されて、潮騒に飲み込まれて江しまうでしょう。あのとき、筆者のこころに押し寄せてきた人のこころの波動は、遠く離れた奥羽山脈の懐に抱かれた山間の里に身を置いている筆者の胸にも、今も鼓動として伝わってきます。
2021/12/01
忘れ得ぬ人と忘れてなるまじき人・・・
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