2021/12/08

哲学者・田中美知太郎の言葉・・・

ハンス・カロッサ著<美しき惑いの年>の本にしおり代わりに挟んでいた新聞の切り抜き記事・・・。

それは、京都大学名誉教授・田中美知太郎の言葉です。田中美知太郎は、筆者が高校2年生のとき父からもらったお年玉で購入した人文書院版『講座哲学大系』(全7巻)の編集者です。その田中鉄太郎の新聞のコラム記事<良心>を転載します。

<良心などというのはもはや今日の言葉ではないだろう。むろん良心的という形容詞が特定の人たちについて使用されることは、今日のありふれた風俗に属するとも見られる。しかしそれはおよそ非良心的な人たちと事柄についていわれているのだとすれば、良心が今日いよいよ廃語となりつつあることのしるしだとも考えられる。
 良心というものは、何よりもまず「われ知る」ということなのである。何を知るのか。それはわたし自身が何を考え、何をしているかを、わたし自身は知っているということである。天知る地知る我(われ)知るという場合の「われ知る」なのである。西洋では古代ギリシャのデモクリトスに、既にこの言葉がある。「ひとりをつつしむ」という意味あいにおいてである。
 その「知る」は多くの場合「自己否定」を含んでいる。自分の不足を知るのである。わたしが正義の人であることからいかに遠く、自分がいかに愚かであるかを知ることである。そしてこのことをはっきりと知り、厳しく自己を批判するためには、他方において「正義」や「知」の純粋なもの、明白なものを求める心がなければならない。かかる志向と、それにもとづく自己の不足の認識が「われ知る」を構成するわけだ。むやみに自己を正義そのもの自己と混同し、自己を人類や人間と即一化することは、まさにその反対でなければならない。いわんや流行の合言葉に相づちを打つだけの無反省的な人間が、良心的なとと呼ばれたりするのは、およそ滑稽(こっけい)>なことだといわなければならないだろう>。

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